アニメ
機動戦士Gundam GQuuuuuuX
※本稿にはネタバレを含みます。ご注意下さい。
庵野秀明が描いたファーストガンダムの "if" はクワトロ・バジーナもシャア・ダイクンも生まれないパラレルワールド
アニメ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』とは
2025年、ガンダムシリーズ最新作
カラー×サンライズ
夢が、交わる。
『エヴァンゲリオン』シリーズを手掛けるスタジオカラーと『ガンダム』シリーズを手掛けるサンライズがお届けする新たなガンダムシリーズ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(読み:ジークアクス)。
新作ガンダムシリーズの深夜枠放送は『ガンダム Gのレコンギスタ』以来10年振りのことである。
監督は『フリクリ』『トップをねらえ2!』『龍の歯医者』などを監督した鶴巻和哉氏。
シリーズ構成・脚本には『少女革命ウテナ』や『STARDRIVER』の榎戸洋司氏。
また『新世紀エヴァンゲリオン』及び『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ等を手がけた庵野秀明氏も脚本として参加している。
キャラクターデザインは西尾維新先生著作『戯言シリーズ』『刀語』のイラストや『ポケモン』『Fate/GrandOrder』の一部キャラクターデザインを担当した竹さんを採用。
プロデューサーにはサンライズからは笠井圭介氏、スタジオカラーからは杉谷勇樹氏が参加。
エグゼクティブプロデューサーには前作『機動戦士ガンダム水星の魔女』と同じく小形尚弘氏が起用されている。
あらすじ
宇宙に浮かぶスペース・コロニーで平穏に暮らしていた女子高生アマテ・ユズリハは、少女ニャアンと出会ったことで、非合法なモビルスーツ決闘競技《クランバトル》に巻き込まれる。
エントリーネーム《マチュ》を名乗るアマテは、GQuuuuuuX(ジークアクス)を駆り、苛烈なバトルの日々に身を投じていく。
同じ頃、宇宙軍と警察の双方から追われていた正体不明のモビルスーツ《ガンダム》と、そのパイロットの少年シュウジが彼女の前に姿を現す。
そして、世界は新たな時代を迎えようとしていた。
入り口の作り方が非常に巧い庵野秀明
庵野秀明氏といえば、真っ先に思い浮かぶのが『エヴァンゲリオン』シリーズ。
庵野氏の名が広く世に知れ渡ったのは、社会現象にまでなった『新世紀エヴァンゲリオン』でのこと。
まだアニメがヲタク文化とされていた時代で、『新世紀エヴァンゲリオン』がなぜ社会現象にまでなり得たのか。
その一因として、作品への入り口が非常に広かったことが挙げられる。
『新世紀エヴァンゲリオン』にはロボット・アクション・美少女・学園などなど、アニメ好きならずとも、一般の人でさえも食いつきやすい要素がふんだんに詰め込まれていた。
これぞ娯楽アニメ。
それが序盤における『新世紀エヴァンゲリオン』である。
しかしそんな『新世紀エヴァンゲリオン』も、終盤で出口が一気に狭められ超難解作品へと変貌する。
それはまるで、売れなければ本当にやりたいことはできないと言わんばかりの、実に巧妙な戦略(かどうかはわからないが…)だった。
そんなエヴァと同じ印象を、まさかガンダムで受けることになろうとは…。
初回放送から半世紀近く経ったファーストガンダム(以後「ファースト」)のマーケットは、すでに頭打ち状態。
もはや伸びしろなど微塵も残っていないものだと思っていた。
しかし庵野氏は、ファーストの "if" をパラレルワールドとして描くことで、なかったはずの伸びしろを見事作り上げる。
ファン心をくすぐるのがとにかく巧い庵野氏。
死んだはずのシャリア・ブルを物語の最初の語り手に登場させたり、レアキャラながら何故かキーパーソンになってしまうカムラン・ブルームの登場など、どれもこれもファーストファンが泣いて喜び思わず食いついてしまう仕掛けばかり。
シャアの登場は、その最たるものであっただろう。
物語の入り口でこんなものをみせられて、ファンが熱くならないわけがない。
たとえ頭打ちであろうと、ファーストのマーケットは絶対値の分母が大きい。
数あるガンダムシリーズの中でも、屈指の人気を誇るのがファーストなのである。
結果、ファーストが潜在的に抱える多くのファンを掘り起こすことに成功する。
エヴァの再来である。
しかし出口に関しては、エヴァの二の舞にはならなかった。
ニ次創作である本作は、最後まで要所要所でファンの心をくすぐり続ける。
ファンにはお馴染みのミハルの「こんにちは。お急ぎですか?」。
続編で活躍するはずのバスク・オムとゲーツ・キャパが登場。
物語終盤のエンディング曲に名曲「BEYOND THE TIME〜メビウスの宇宙を越えて〜」。
キケロガはガンダムが全52話予定だった最初期プロットにある名で、まさに知る人ぞ知る設定である。
きっとこれだけではないはずだ。
よくよく見返せば、細かい仕掛けがもっとあったのだろう。
何度も見返し散々擦り倒したはずのファーストガンダムだが、見尽くした作品にまさかこんな遣い方があろうとは。
相も変わらず入り口の作り方が非常に巧い庵野秀明氏である。
庵野秀明が描いたファーストガンダムの "if" はクワトロ・バジーナもシャア・ダイクンも生まれないパラレルワールド
本作は、ファーストガンダム(以後「ファースト」)の "if" をパラレルワールドとして描いた作品である。
「もしも一年戦争でジオンが勝っていたら」
この世界線を描くために庵野氏が行き着いたのは、「アムロをガンダムに乗せない」ことだった。
本作物語の基になっているファーストの主人公であるアムロ・レイ。
そのアムロがガンダムに乗らず、結果ジオンが戦勝する本作の主役が、アムロのライバルであるシャアになるのはごくごく自然なことなのだろう。
本名はキャスバル・レム・ダイクン。
ジオン建国の父であるジオン・ズム・ダイクンを実父に持つシャアは、ファーストのみならず続編にまで多大な影響を及ぼす宇宙世紀ガンダムの中心人物である。
敵軍の将でありながら、ファンから絶大な人気を集めるキャラクターだ。
だがその人気もファーストまでの話。
続編に登場するシャアに、ファーストのような自信に満ちた姿はない。
某国のプリンスというカリスマ性も薄れ、かなりのこじらせキャラとして描かれることになる。
シャアを信奉するファンには、さぞや苦い思い出だろう。
もしかしたら庵野氏も、そのひとりだったのだろうか。
庵野氏の描いたシャアに、続編の堕落はない。
本作の結末をみる限り、既存の続編に登場するニュータイプのなり損ないのシャアは存在しない。
なぜなら、本作ではララァ・スンが生きているからである。
ファーストではあれほど切れ者感を漂わせていたシャアが続編でこじらせキャラに変貌していく根本的な理由は、ファースト最終盤でのララァを巡るアムロとの因縁にある。
某国のプリンスとして複雑な家庭環境に生まれたシャアにとって、ララァは唯一「母になってくれるかもしれなかった女性」だった。
そのララァを失ったがために、以後シャアはこじれにこじれていく。
しかし庵野氏はそれを善しとしなかったかのようである。
もしララァが生きていればアムロとの遺恨はなくなり、アムロにこだわる理由もなくなる。
ララァがいれば、シャアのニュータイプへの覚醒も促されたに違いない。
すると、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で描かれた「シャアの反乱」は起こらない公算が高くなる。
つまり、シャア・ダイクンが生まることはなくなるのだ。
では、クワトロ・バジーナはどうだろう。
ジオンが勝つなら、その後に勃発するはずのデラーズ・フリートの反乱(デラーズ紛争)も当然ながら起こらない。
だから対ジオン残党特殊部隊「ティターンズ」が結成されることはなく、反ティターンズ組織である「 エゥーゴ」が生まれることもない。
とはいえ何らかの反ジオン組織が誕生するのだろうが、少なくとも「ティターンズ」のような大規模な精鋭特殊部隊ではなく、もっと小規模なものになるだろう。
だからおそらく、シャアがクワトロ・バジーナという偽名を名乗ってまで参戦する必要性はなくなるはずである。
ファーストのパラレルワールドである本作で、あえて続編で活躍するはずのバスク・オムを登場させたのは、そのことを暗に示したのではないだろうか。
(しかしバスクと共にいたのがゲーツ・キャパだったのは、なかなかシビれる演出であった。劇場版『Z』では出番が削られたゲーツ・キャパだが、ようやくここで報われた。)
終盤になって「BEYOND THE TIME〜メビウスの宇宙を越えて〜」がエンディング曲として流れたのも、もしかしたら同じ理由だったのかもしれない。
つまり一年戦争後のシャアの行動はすべて、ララァを失ってニュータイプになりきれなかった歪みに依るところが大きいのだ。
シャアがララァと共にあってニュータイプへ覚醒すれば、この歪みはなくなる。
シャアがニュータイプへと覚醒すれば、実父ジオン・ダイクンの思想は正しく理解されただろう。
そうなれば地球の重力に縛られ自己中心的になっている人類をニュータイプが導くという、酷く独善的な思想に傾倒することはない。
もしかしたらララァやアムロのように、自発的な「人類の革新」を期待するキャスバル・ダイクンに戻れたかもしれない。
シャアがダイクンを名乗れば、地球連邦の横暴も少しは抑えられたかもしれない。
シャアが歪まなければ、ハマーンが歪むことはなかったかもしれない。
「人の心の光」を可視化してみせたアクシズ・ショックという奇跡も、もっと別の平和的な形で人々に示せたかもしれない。
極論を言ってしまえば、ファーストから連なる宇宙世紀ガンダムの多くの事象は、ララァを失いニュータイプになり損なったシャアが原因といえなくもないのである。
逆に言えば、シャアがニュータイプになり損なったせいでファーストの続編が生まれた。
しかし庵野氏は、本作ですべての続編を否定した。
それを裏付ける描写がある。
本作ではファースト本編の世界線が何度か描かれているが、我々が知る歴史とは明らかに違う描写がたったひとつだけあった。
それは本来ならばシャアを庇ったララァが撃破されるシーン。
それが本作では、ララァを庇ったシャアが撃破されたことになっていた。
パラレルワールドとは並行世界であるから、起こった事象は世界線によってそれぞれ違う。
だからララァを庇ったシャアが撃破される世界線も、もちろん存在するだろう。
しかし、わざわざオリジナルキャストまで引っ張り出してファンをざわつかせたあのシーンが、正史でないわけがない。
あれは間違いなく、庵野氏が描いたファースト本編の世界線である。
そしてシャアがいなくなったファースト本編の世界線でも、やはり続編は生まれないことになるのである。
きっと本作では、どの世界線でも続編は生まれない。
そう思わせるほど、徹底的に続編を否定したような庵野氏。
その理由は何だったのだろう。
ファーストから始まる宇宙世紀ガンダムは、今でこそ何作にも渡る壮大な物語である。
しかし単編としてみたならどうだろう。
シャアという巨大なカリスマは、ララァに庇われるような存在などではなく、ララァを庇って散るべき存在だった。
おそらくソロモンでシャアがいなくなっても、ファーストの結末は何も変わらない。
ならばあそこで散ることが、シャアというキャラクターの滅びの美学といえなくもない。
いつも最後は生死不明では、締まらないのである。
続編のシャアの不甲斐なさを嘆くファンは少なくない。
その嘆きはファーストの存在感に依るところが大きい。
ファーストでのシャアのイメージを護るためには、どうすればいいか。
頃合いをみて華々しく散らせるか、アムロ同様ニュータイプとして覚醒させるか。
結局この二者択一しかなかったのかもしれない。
そして庵野氏も、もしかしたら同じようなことを考えたのかもしれない。
いずれにせよ、シャアへの熱い想いがなければこんなパラレルワールドは思いつきもしなかっただろう。
(たぶん)続編のないガンダム。
それはスポンサーの意向など意にも介さない現れでもある。
スポンサーに翻弄されたファーストの立場を鑑みれば、パラレルワールドはずいぶんな出世といえるのではないだろうか。
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