日本人ですら忘れかけているが、日本語には情緒や奥ゆかしさや美しさが溢れている。
時代が移り変わるたびに言葉が乱れていると言われるが、言葉は文化だから時代に応じた変化は当然といえる。
だからといって、ただ時代を追うだけではよろしくない。
古くから伝えられる文化を学ぶこともまた必要だ。
日本語が美しいと思うようになったのは、遥か中学生時代にまで遡る。
あれは英語の授業だったか。
ある教師がこう言った。
「有名な芭蕉の句。
《閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声》
は厳密に言うと正確に英訳できないんです。」
あくまでも正確に英訳できないという前提。
ふたつ理由があるらしい。
わりと有名な話だが皆さんはこの理由をご存知だろうか?
ひとつ目は、外国人に「蝉の声」というニュアンスが理解できないこと。
ふたつ目は、聞く人間によって「蝉の声」が単数なのか複数なのかが違うから正確には英訳できないらしい。
なるほど。
日本人ならこういう細やかなニュアンスをすんなり感じ取れる。
疑問すら持たないだろう。
日本人にとっては当たり前の感覚だろうが、実はこれってなに気に素晴らしいことではなかろうか?
日本語の奥ゆかしさ示す例は他にも沢山ある。
次は身近な例をひとつ挙げてみよう。
《結構です》
頭に「はい」をつければ肯定。
「いいえ」をつければ否定となる。
悪く言えばはっきりと白黒つけられない日本人の悪癖なのかもしれない。
しかし著者には、日本語とはこんなにも奥ゆかしく美しいものだったのかという衝撃でしかなかった。
日本語の美しさを感じられる例はまだまだある。
皆さんは以下の苗字をいくつ読めるだろう?
ー 問題 ー
①《小鳥遊》
②《月見里》
③《四月一日》
④《一》
⑤《九》
正確は次の通りだ。
ー 解答 ー
①《たかなし》
鷹がおらず小鳥が自由に飛び回れる状態から。
②《やまなし》
月を遮る山がないという意味から。
③《わたぬき》
春になると綿の入った衣の綿を抜くことから。
④《にのまえ》
「一」は「二」の前の数字であることから。
⑤《いちじく》
一字で「九」と読むから。
如何だろう。
日本語の奥ゆかしさと美しさを感じないだろうか。
優雅さを漂わせる言葉選びのセンスと、遊び心溢れる語彙力は素晴らしいの一言。
特に「小鳥遊」と「月見里」の成り立ちは、群を抜いて秀逸だ。
一体どんな感性をしていれば思いつくのか。
同じ韻の言葉をただ置き換えた、オヤジギャグレベルの言葉遊びとは次元が違う。
《このはしわたるべからず》という立て札に対する、一休さんのトンチとは美しさの本質が違うのだ。
何より、粋ではないか。
トンチはトンチで非常に面白いのだけれども、それはまた別の機会に。
四季を知る日本人には古くから素晴らしい美的センスが備わっていた。
冒頭の芭蕉の句についても、もっと掘り下げて考えれば「蝉が鳴くのに《閑けさや》とはこれ如何に」と、疑問に思われなかったか?
日本語の探究は実に面白い。
ちなみに有名な川端康成氏の《雪国》も感性の違いで、正確には英訳できないというから驚きだ。
温故知新も時には必要ではないだろうか。
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