日本史上最大のミステリー「本能寺の変」
日本史上最大の謎のひとつ「本能寺の変」。
その謎を解く鍵のひとつが大名物茶器・楢柴肩衝だ。
その説明の前に、当時の織田信長の状況を振り返ってみたい。
天正10年3月、念願の宿敵・武田家を滅亡させた織田信長にとって、残る敵は東に北条家・上杉家。
そして西の大名・毛利家であった。
いよいよ、念願の天下布武の達成が目前になっていた。
5月17日の羽柴秀吉からの早馬で毛利攻めを決意した信長は、その遠征に先立って5月29日、38点の大名物茶器とわずかな供廻りだけで急遽上洛して本能寺入りした。
なぜ38点もの「大名物茶器」を大雨の中、わざわざ安土城から運んできたのか?
その理由は実に明白であった。
博多の豪商茶人・島井宗室とその義弟の神谷宗湛に披露する茶会を催すためである。
本能寺の変の前日に茶会が催されていたことは有名な話だが、その相手は公家たちではなく、ただの豪商にすぎない島井宗室・神谷宗湛のためだったのである。
二人は博多の豪商茶人であるが島井宗室は大名物茶入・楢柴肩衝の所有者として、つとに著名な茶人だった。
信長はすでに初花肩衝と新田肩衝という大名物茶入を所持していたのだが、この楢柴肩を入手すると天下の三大・大名物茶入が揃うことになる。
三つ揃えた人間は天下を獲るとまで言われていた。
この茶器ひとつで、国ひとつと同等の価値があるとされた名物中の名物。
まさに信長の垂涎の的の茶入だった。
そもそも茶入が茶道具の中でも最高位の物とされ、大方は「肩衝」、「茄子」、「文琳」、「その他」に大別できるが、なかんずく「肩衝」がその第一である。
初花肩衝、新田肩衝、そしてこの楢柴肩衝という銘のある三器をこの時点でそろって所持した者はおらず、この楢柴肩衝さえ入手すれば信長こそ天下に隠れなき最初の大茶人に成りえたのだ。
島井宗室は5月中旬から京都に滞在しており、6月初旬には博多に向けて京を立つ旨の情報を信長に伝えたのは、千宗易(利休)だと思われる。
信長にしてみれば玩具屋の前で物をせがむ小児さながら、宗室在京のこの機を逸したら当分の間楢柴肩衝入手の機会が遠のくという焦りがある。
何としてでも宗室に会いたい。
だが初対面の博多の豪商に「予の上洛まで待て」とは、いくら信長でもまだ言えない。
とにかくこちらから会いに行くしかなかった。
《愛知県豊田市長興寺所蔵》
予定を前倒して上洛した信長
すでに毛利攻めの触れは出していた。
兵が整い次第上洛するから暫く待て、と信長は宗室に伝える。
しかし島井宗室は本心では楢柴を信長に見せたくない。
見せたら権力者・信長のことだ、きっと無理やり献上させられてしまうだろう。
京滞在期間は伸ばしても6月1日(仮)。
信長の上洛はそれ以降になりそうだった。
わざわざ滞在期間を延長してまで信長と謁見する理由がない島井宗室は「ではまた次の機会に」ということになる。
島井宗室が信長に対して強気とも受け取れる態度に出れる根拠は、ただひとつ、楢柴肩衝の所有者だったからだ。
結果的に信長は予定を前倒し上洛。
島井宗室と会い茶会を催すのだが、並み居る公家をそっちのけで博多のイチ商人でしかない島井宗室を正客として迎えている。
信長は島井宗室に気を遣っていたのだ。
信長上洛前へと話を戻そう。
また次の機会でと言われ慌てたのは信長。
もうすぐ兵は整うが、期日には微妙に間に合いそうもない。
しかしそれはたった数日の間だけの話だった。
幸い畿内に、もはや敵はいない。
京は信長にとって庭みたいなものだった。
ならば信長ひとりが先に上洛しても何ら問題はあるまい。
兵はあとから来ればいい。
手勢だけ引き連れて、とりあえず自分だけでも上洛してしまおう。
信長がそう思ったのなら、この瞬間に本能寺の変は完成したことになる。
茶器に目が眩んでまんまと罠にハマってしまったわけだ。
これは完全に信長の油断と言わざるを得ない。
もし本能寺の変に黒幕が存在するならば、楢柴肩衝をエサに巧妙に信長を誘い出した人物こそがこの疑惑の核心になるだろう。
その人物がわかれば苦労はないのだが…
本能寺の変の真相には、多くの説が存在するがその中のひとつに秀吉黒幕説というものがある。
たしかに信長の上洛のキッカケは5月17日の羽柴秀吉からの早馬だが、そのことで秀吉をこの陰謀の黒幕とするのは早計だろう。
秀吉は毛利攻めの総仕上げとして、信長に花を持たせようとした節がある。
秀吉が明智光秀を巧みにそそのかしていた可能性はあるが、もし仮に光秀の本心を知っていたとしても、秀吉としてはどちらに転んでも良かったのではないだろうか。
光秀が事を起こせば、その時は覚悟を決める。
仮に光秀が事を起こさなくても、信長に花を持たせられるから秀吉はとりあえず安泰だったろう。
これならば秀吉黒幕説にも納得できるが、真実は未だ闇の中である。
本能寺の変のキッカケが楢柴肩衝だという説に説得力があるのは、前日に催された茶会で居並ぶ公家を差し置いて、所詮はただの商人でしかない島井宗室を正客として迎えているという点にある。
もはや天下に敵なしの信長が、たかだか商人ひとりのために必死に接待しているのだ。
これは明らかに異常な事態である。
その異常さこそ、真実に近づいている証のように思う。
ちなみに件の楢柴肩衝は、この後さらに数奇な運命をたどることになる。
信長とは直接関係はないが、楢柴肩衝のその後の逸話を知ればきっとこの説の信憑性がさらに増すことだろう。
この後、楢柴肩衝は豊臣秀吉から徳川家康へと受け継がれていく。
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