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【教科書では教えてくれない勘違いだらけの日本史】日本有史以来、はじめて政治と宗教を分離させた織田信長の比叡山焼き討ちは宗教弾圧などではない。

 

 

 

 

織田信長比叡山焼き討ちとは

 

比叡山焼き討ちは、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に現在の滋賀県大津市比叡山延暦寺で行われた戦い。

この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。

後述するが、一方で近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。

その様子は『信長公記』に詳しく書かれており、僧侶、男女、子供にかかわらず撫で斬りにされ、根本中堂などが灰燼に帰したという。

死者の数は、フロイスの書簡には約1千5百人。

信長公記』には数千人。

山科言継の日記『言継卿記』には3千~4千と書かれている。

いずれにしても、相当数の人間が亡くなったのは確かだろう。

坂本周辺に住んでいた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって皆殺しにされた。

 

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《愛知県豊田市長興寺所蔵》

 

 

 

比叡山焼き討ちの通説的な見解は?

 

信長による比叡山焼き討ちは、どのように理解されてきたのか。

天台宗比叡山延暦寺は、中世をとおして宗教的な権威として畏怖され、ときの権力者は公家、武家を問わず、容易に手出しをできなかった。

しかし、信長はその中世的権威を否定すべく、焼き討ちを実行に移した。

それは、信長の革新性や無神論者を裏付けるような出来事であると評価されてきた。

加えて、信長は仏教を牽制すべく、キリスト教を優遇したとまで言われてきたほどである。

果たして当時の人々は、信長の焼き討ちをどう考えていたのか?

『言継卿記』には、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難した。

仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。少なくとも、褒められるようなことではなかったのは事実のようである。

 

 

 

堕落していた比叡山延暦寺

 

一方で、信長自身はどう考えていたのか。

当時の比叡山延暦寺の様子について、『信長公記』には「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれている。

つまり、延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だったようだ。

延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』にも延暦寺の僧侶が修学を怠っていた状況が記されている。

そのうえで、延暦寺は信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したというのだ。

こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。

 

 

 

 

敵に与同した比叡山延暦寺

 

前年の元亀元年(1570)、朝倉氏・浅井氏と戦っていた信長は、比叡山延暦寺に対して、

①.信長に味方をすれば、山門(比叡山)領を返還すること。

②.一方に加担せずに中立を保つこと。

③.①②を聞き入れないなら根本中堂を焼き払うこと。

を、通告していた(『信長公記』より)。

結局、比叡山の衆徒は回答することなく、あろうことか朝倉氏、浅井氏に味方した。

信長は申し出が拒否されたので、比叡山焼き討ちを決意したのだ。

 

 

 

 

信長は仏教を否定しなかった?

 

重要なのは、信長が仏教を否定したのではないということだ。

根本的なことは、仏教者たる比叡山延暦寺の僧侶が仏教者たる本分を忘れ、修学に励まないこと、放蕩生活を送っていたことに加え、信長に敵対する勢力に加担したからである。

信長による比叡山焼き討ちは、仏教の否定、比叡山の宗教的権威の否定と捉えられ、信長の革新性を裏付ける行動とされてきた。

しかし、現在の研究では、信長にそうした意図がなかったと指摘されている。

 

 

 

 

比叡山焼き討ちは宗教弾圧などではなかった

はじめて政治と宗教を分離させた織田信長の功績

 

古来より、政治と宗教は強く結びついている。

我々も某宗教団体絡みの政党をよく知っている。

これは日本だけの話ではない。

キリスト教しかり、イスラム教しかり、そして仏教しかり。

しかし宗教が政治に口出ししだすと、ろくなことが起きない。

現代より信仰心があった頃なら、なおさらだ。

他に救いを見い出せない民衆は、神や仏の教えに縋り、神を崇め畏れるが故に、当時の宗教勢力の影響力は絶大だった。

そんな風だから宗教は人々の生活にも密接に結びついていた。

多くの民衆が救いを求めて、信仰を深めていた。

しかし人の心に宿るはずの信仰には、どうやら金の匂いがするらしい。

それも現代と変わらない。

織田信長が生きた時代は今とは比べものにならないほど宗教の影響力が強かったが、宗教の役割が鎮護国家だったことにもそれは起因している。

仏の教えで都を護るというのが主な役目で、だから都で何か悪いことが起きると宗教の力を借りておさめる、という具合だ。

無宗教・無信心の現代人にとっては子供騙しであるが、他に手立てがないから宗教に頼る部分が大きくなる。

当然、影響力は強くなる。

朝廷から広大な寺領を拝領し、そこから吸い上げる金銭でブクブク肥えてゆく。

ザクザク集まってくる金はさぞや膨大だったことだろう。

殺生厳禁なんていつの時代の話だ?

美食も美酒も美女もナマグサには関係ない。

なんだって揃う。

人間はよほどの徳でもない限り、欲には勝てない。

一度甘い汁を吸ってしまえば、欲の際限はなくなるらしく、いつまでもどこまでも欲しがり続ける。

結果的には神の御名の元に欲深い人間が蔓延ることになる。

罪深いことこの上ないが、そんなことはお構いなしだ。

だって、世界は自分たちの思いのままだから。

政治だって思い通りになった。

「都を護っているのは誰だと思っている?」と、勘違いした俗物どもが、神の御名を盾にあたかも己が神の如く振る舞う。

もし自分たちに都合の悪い政治が行われても、僧兵を仕向ければ事は万事都合良く収まった。

脅迫じみた圧力で自分たちの思い通りに政治を操っていた。

そのような古来からの悪習に、日本史上初めてメスを入れたのが織田信長であった。

織田信長鎮護国家たる比叡山を焼き討ちする。

前述した通り、いくら織田信長といえど、何もいきなり比叡山を焼き討ちしたわけではないことは明らかだ。

比叡山には焼き討ち以前に宗教の公平性を保つよう、再三再四申し入れている。

図に乗って聞き入れなかったのは比叡山の方だ。

信長は無神論者であったが、各宗派に多額の寄進もしている。

信仰自体を否定したこともない。

抵抗さえしなければ擁護もした。

そんな信長の再三の忠告を無視し続けた比叡山は、織田軍によって焼き討たれ灰燼に帰す。

焼き討ちの是非はこの際どうでもいい。

ただこの瞬間、日本有史以来はじめて政治と宗教が分離した。

日本は信長の焼き討ちで、はじめて政教分離がなされた。

これは世界でも類を見ない快挙である。

神仏をも畏れない信長の所業は、信仰心の深い当時の人々にさぞや恐れられたことだろう。

しかし超合理主義者で無神論者の信長にとって、所詮はただの偶像崇拝に何の関心も恐れもなかったことだろう。

信長にとっては比叡山焼き討ちも、ただ軍事戦略上行った軍事行動ひとつでしかなかったのだ。

宗教が政治に口出ししてくるとロクなことがない。

人の心は弱い。

そんな人の心の弱さにつけ込めば、人心掌握は実に容易い。

しかしそんな教えに、真実の救いがあるのだろうか?

宗教を否定する気はないが、一部のそういったやり口には心底反吐が出る。

本当に罪深い人間ほど、軽々しく神の御名を口にするのかもしれない。

 

神田千里著/織田信長 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

 

 

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