洋画の派手さこそないがどうしようもなく心にしみる…
それこそ邦画の最大の魅力
洋画の派手さこそないがどうしようもなく心にしみる…
それが邦画の良さだと思う。
昔は当たり前のように洋画一択だったが、近年の邦画はなかなかバカにできない。
製作費でハリウッドに勝てないならシナリオと演出と演技で勝負といわんばかりに、邦画のクオリティーは年々高くなっている。
たしかにハリウッド映画は華やかで見栄えもするが、どうしても大味になってしまっているように感じる。
演出的にはどうしても地味な邦画ではあるが、シナリオ的に感性が合うのはやはり制作者が同じ日本人だからだろうか。
もちろん作品によるが、邦画には洋画のクライマックス的派手な見せ場がほとんどない。
ドッカンドッカン爆破しないし、ガガガガ派手な銃撃戦もない。
カッコいい戦闘機も、イカツイ戦車も邦画とは無縁に近い。
だが、最近そんな邦画が観ていてとても心地よい。
ガチャガチャとうるさいだけの映画は苦手だ。
時には深く考えさせられ、じわじわ心にしみてくる映画を好むようになってからというもの、邦画が面白くて仕方ない。
日本人ならではの感性で演出し魅せていくのが邦画だ。
ここではまったく派手ではないけれど、どうしようもなく心にしみて今なお強く記憶に残っている邦画をご紹介したいと思う。
Fukushima 50
『Fukushima 50』とは
『Fukushima 50』(フクシマ フィフティ)は2020年3月6日に公開された日本映画。
門田隆将著の書籍『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』を原作に、東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所事故発生時に発電所に留まって対応業務に従事した約50名の作業員たち・通称「フクシマ50」の闘いを描く物語。
監督は若松節朗氏。
「復興五輪」と銘打たれた「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の開催を控え、「今一度、震災の記憶と向き合い、復興への思いを新たにする作品を世に問う、それこそが映画人の使命である」として、東日本大震災における福島第一原発事故を描いた本作が製作された。
劇中に登場する政治家や関係者は役職名として登場するだけで、吉田昌郎氏以外、モデルとなっている人物の実名では登場しない。
また電力会社の名前も「東都電力」に変えられている。
なお、当作品に東京電力が協力したという発表はない。
あらすじ
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、最大震度7という日本の観測史上最大となる地震が発生し、巨大津波が福島第一原子力発電所を襲った。
津波による浸水で全電源を喪失してステーション・ブラック・アウト(SBO)となり、冷却不能の状況に陥った原子炉は、このままではメルトダウン (炉心溶融)により想像を絶する被害がもたらされることは明らかだった。
1・2号機当直長伊崎ら現場作業員は、原発内に残り原子炉制御に奔走する。
全体指揮を統括する吉田所長は部下たちを鼓舞する一方、状況を把握しきれていない本店や首相官邸に対し怒りをあらわにする。
しかし現場の努力もむなしく事態は悪化の一途をたどり、近隣の人々は避難を余儀なくされる。
首相官邸が試算したこの事故による最悪のシナリオでは被害範囲は半径250km、避難対象人口は約5000万人にも及び、それは「東日本の壊滅」を意味する。
現場に残された唯一の手段は「ベント」(手動による圧抜き)で、未だかつて世界で実施されたことのないこの手段は作業員が体ひとつで原子炉内に突入して行う手作業が要求される。
外部と遮断され何の情報も入らない中、ついに作戦は始まる。
当時の民主党・菅直人政権を批判するためのプロパガンダ映画?
劇中では「総理が現地へ行くことになったのでベント(手動による圧抜き)が遅れ、被害が拡大した」したというストーリーに仕立てている。
しかし総理の視察とベント(手動による圧抜き)の遅れとの因果関係は、何種類も出た事故調査委員会の報告書で否定されている。
遅れたのは、手動でやらなければならず準備に時間がかかったからで、これはこの映画でも詳しく描かれている。
劇中では準備が整い決行しようと思ったところに、東電本店から「総理がそっちへ行くので、それまでベント(手動による圧抜き)を待て」と言われ、できなくなったことになっている。
吉田所長の感覚としては、もしかしたらそうだったのかもしれない。
だが、菅首相としては「午前3時にベント(手動による圧抜き)をする」と伝えられていたのに、3時を過ぎても「遅れていること」も、「遅れている理由も」も知らされない状態だった。
そこで「行くしかない」となったのだ。
その首相側の事情は描かれていない。
12日午後、一号機が爆発する。
劇中では首相は官邸の危機管理センターにいて、そのモニターでリアルタイムで知ったかのように描かれている。
しかし実際はこういう経緯だ。
爆発は15時36分。
菅首相は15時から与野党の党首会談に出席し、16時過ぎに終わった。
執務室に戻ると危機管理監から「福島第一原発で爆発音がした。煙も出ている」との報告を受けたが、管理監も「詳しいことは分からない」という。
しばらくして、白煙が上がっているらしいとの情報も入る。
そこで東電から派遣されている武黒フェローを呼んで訊くと、「そんな話は聞いていません」との回答。
武黒フェローは「本店に電話してみます」と言って問い合わせたが、「そんな話は聞いていないということです」という。
菅首相は原子力安全委員会の斑目委員長に「どういう事態が考えられますか」と質問した。
委員長が「揮発性のものがなにか燃えているのでは」と答えたとき、秘書官が飛び込んできて「テレビを見てください」という。
テレビをつけると、日本テレビが第一原発が爆発しているのを映していた。
実際に爆発してから1時間が経過しており、その間東電からは何の報告もなく、首相は一般の国民と同時刻にテレビでこの事実を知ったのである。
東電の本店と福島第一原発はモニターでつながっているので、本店はリアルタイムに知っていたはずだがそれを伝えなかった。
問い合わせにも「聞いていない」と答えた。
そういう東電本店のお粗末さが、この映画では描かれない。
ちなみに首相役を演じていたのは佐野史郎氏。
だがこの映画の配役表では、佐野史郎氏が演じているのはあくまで「内閣総理大臣」であって、「菅直人」ではない。
万一抗議されても、「あくまで『総理大臣』であって、『菅直人』を演じたのではない」と言い逃れできるようになっている。
映画のなかで「菅さん」というセリフがなくても、誰もが佐野史郎氏が演じている「総理」が「菅直人」だとイメージするように作っておきながら、あの人物は「菅直人」ではないのと言い逃れができる作り方をしている。
当時の政権にもさまざまなミスはあったろう。
だから別に菅直人氏をもうひとりのヒーローとして描く必要はない。
今作品は実話をもとにしている。
だが一方だけをヒーローに祭り上げるような偏った描き方をすれば、それを観た人間は、あたかもそれが現実のだったと思い込むだろう。
当時の政権を擁護する気はさらさらないが、実話がもとならば、吉田所長と同程度の再現度で「菅直人首相」として描くべきではなかったのかという点では非常に疑問が残る。
何もかもが知らないことだらけ
遅すぎた映画製作と公開
「もっと早く観たかった」というのが正直な感想
今作品を観るまで、恥ずかしながらこの事実を知らなかった。
あの時福島第一原発の中で何が起きていたのかを、いっさい知らなかった。
今作品をはじめて観たとき、己の無知ぶりが本当に恥ずかしく思った。
前述したが、今作品の公開は2020年3月6日。
「復興五輪」と銘打たれた「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の開催を控え、「今一度、震災の記憶と向き合い、復興への思いを新たにする作品を世に問う、それこそが映画人の使命である」として製作されている。
撮影は実際の現場を再現した巨大セットを用いて、2018年11月から2019年4月にかけて行われたそうだ。
しかし地震が発生したのは2011年3月11日だ。
事実を知るまで9年の歳月が経過している。
当時、批判の北先は東京電力に向けられた。
実際、その批判は間違えていないと思う。
今作品を観たことで、改めて東京電力を擁護する気は毛頭ない。
不信感しかない東京電力ではあるが、今作品発表前に、現場の人間が命を懸けて事に当たっていた事実を知っている人間がどれほどいただろう。
だからといって東京電力への叱責がなくなるわけだはないが、少なくとも見方は少し変わってくる。
東京電力のすべてが悪のように批判されているが、さらなる被害拡大を防ぐために、命を張って日本の未来を守ってくれた東京電力職員もいたのだ。
今作品を当時の政権を批判するためのプロパガンダ映画のようだと書いてはみたが、その点以外は観るに値する。
いや、日本人なら観なくてはいけない作品のような気がする。
何事でも批判するのは簡単だが、物事の本質とは双方の見地に立ってみてみないとわからない。
一方的な思い込みだけで物事を判断する愚かさと、それがどれほど危険なことなのかをを気づかせてくれた『Fukushima 50』。
今日という日に観直してみるのもいいかもしれない。
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