其の五
美しき日本語の世界。
『美しい日本語』第1位
「ありがとう」
以前NHKが実施した『美しい日本語』についてのアンケートで、見事1位に輝いたのは「ありがとう」だったという。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を、コミュニケーションの最重要ワードと考えている著者にとっては喜ばしい結果である。
ただ、近年日本では傲慢さばかりが目立ち、「ありがとう」が失われつつあるような気がする。
何かとささくれ立つ今だからこそ、改めて「ありがとう」という言葉について考えてみたい。
「してもらってあたりまえ」ではない
『夫が「ありがとう」という言葉を言ってくれないんです』
そんな相談を受けたことがある。
奥さんのやるせない思いが伝わってきた。
例えば、本を読んでいる夫に対し、奥さんがコーヒーを淹れてそっと差し入れてあげたとする。
このちょっとした気遣いに対し、「ありがとう」という言葉が返ってくれば、その場は非常に和やかになる。
しかし、特に意識もしていない場合、素直に感謝の言葉を口にすることが出来ない。
このように感謝の気持ちを素直に表せないケースは、家族間のような気の置けない関係性、あるいは上下関係がはっきりしている場合に多い傾向にある。
その背景には "してもらってあたりまえ" という思いがあるからだ。
「店員こそ客に感謝を」は一見、正論のようではあるが…
しばしば議論になる話題がある。
「客は店員にお礼を言うべきか」問題である。
- 「サービスの対価を払っているのだから、客が店員に『ありがとう』と言う必要はない」
- 「いやいや、お金を払っているからといって、客と店員に立場の上下関係があるわけではない。してもらったことにお礼を言わないのはおかしい」
- 「細かいことは気にしていないけど、自然と "ありがとう" と言ってしまう」
さまざまな意見があがる。
こちらが何かをしてあげたから、何かを返してもらうのは当然である――
このような考え方に立っているうちは、感謝の気持ちは生じなくなるだろう。
客は対価を払っているから商品を受けとる権利があり、店員は商品を買ってくれたお客に感謝を伝える立場にある。
これは一見すると正論であり、間違ってはいないようにも思える。
もしかしたら、前述の夫が感謝の言葉を伝えてくれないのは、「妻は夫に尽くして当然である」と夫が思っているからかもしれない。
それが正しいかどうかは別として、その考え方には大きな問題がある。
「ありがとう」と「サンキュー」は意味が違う
こちらが何かをしてあげたから、何かを返してもらうのは当然である――
こういう考え方に陥ってしまうのは、そもそも「ありがとう」という言葉の意味を履き違えている点に問題がある。
日本語における「ありがとう」の語源は「有ることが難い」という意味である。
そのことが希有であるというのが本来の意義なのだが、おそらく多くの人が、英語の「サンキュー」と同義に捉えている。
英語の「サンキュー」は、「感謝する」という動詞の「thank」と、「あなたに」を指す目的語の「you」で成り立つ。
つまり、「あなたに感謝します」という意味での「ありがとう」を意味している。
しかし日本語における「ありがとう」は、実はもっと深い意味を持っていて、大袈裟にいえば我々人間の存在論に関わる言葉なのである。
「人」という字に「間」と書いて人間だ。
この言葉に示されるように、我々人間は、他の物や他人との関係性の「間」を生きている。
例えば自己紹介をしようと思うとき、「私は株式会社〇〇の〇〇です」「○○の息子の〇〇です」など、自分以外の何かとの関係性を明示することで、初めて自分という存在を語れるのである。
自分の周囲にある縁は「有ることが難い」
誰一人として、自分一人で存在できる人間はいない。
もしも両親が出会わなければ、自分の命はこの世に誕生しなかっただろう。
もしも両親の両親が出会わなかったら……と遡っていくと、たったひとつの出会いが変わっていただけでも、今の自分という存在はなかったかもしれないのである。
そんな偶然に偶然が重なって生きている世界において、触れる縁はどれも奇跡的なことであり、まして80億人近くいる人間の中から、家族になったり、恋人になったり、あるいは関係性をもつ縁が得られること、それがいかに「有ることが難い」ことであるか、想像できると思う。
関係性の中を生きている我々は、自分一人で生きていくことは出来ない。
食べ物として動植物の命を頂き、誰かが作った道具を利用して調理し、木材を使って職人が造った家で衣食住を満たす。
他の人の力を借りなければ、生きていくことは出来ないのである。
この真理を正しく導き出すができれば、「お金を払ったから感謝しなくてもいいんだ」という考え方が、必ずしも正論ではないことがお分かりいただけるのではないだろうか。
「してもらってあたりまえ」なことなど、何ひとつないのである。
「ありがとう」は人間関係の潤滑油
様々な人や物との関係性を生きる我々人間にとって、「ありがとう」の言葉はコミュニケーションの潤滑油のようなものである。
誰だって、人に親切にしたり、施してあげたりしたときには、感謝されたいという欲を持っている。
「してあげたのだから感謝してもらって当然だ」という態度をとることが、非常に横柄であることはご理解いただけると思うが、せめてひと言「ありがとう」と言ってもらえるだけで、気持ちが良い関係性を保つことができる。
反対に、潤滑油である感謝の言葉を伝えられない人は、周りとの関係性がギスギスしていくことになるだろう。
「あの人に協力しても、感謝されることなんてないからな」と、周囲に助けてもらえない人間になっていくのだ。
最近は店員に横柄な態度をとる男性に不快感を覚える女性も多いようだが、「俺は客だぞ! 金を払っているんだから言うことを聞け」などと勘違いする男性の幼さ、度量の狭さが伝わるからだろう。
これと同じく、会社などで部下や後輩が自分を助けてくれても、さして感謝の態度も示さないばかりか「別に頼んでない」「あたりまえのことだから」などと憎まれ口を叩こうものなら、頼りにされることもなくなっていく。
たったひと言「ありがとう」と言えないがために、信頼を失い、結果的に大きく損をすることになるのだ。
感謝できる人間になるブッダの教え「知恩」
では、感謝できる人間になるにはどうしたらいいのか。
ヒントになる仏教語が「知恩」である。
「恩を知る」と書くのだが、この教えは感謝することの大切さを説いている。
恩という字は「因」と「心」の二つの字から成り立っている。
つまり、「原因」となったものを洞察できる「心」を持つということだ。
そうして初めて、恩を感じることが出来るできるのである。
このような観点で物事を見ていくと、たとえ対価としてのお金を支払っているのが自分であったとしても、施してくれる相手がいなければ何かを享受できないことに気がつくことができる。
そこまで想像力が働けば、「してもらってあたりまえだ」という傲慢な心ではなく、「していただいて有難い」という恩に変えていくことができるのである。
「嬉しい」「楽しい」「美味しい」など、幸福感を感じたときに、それが何によってもたらされたのかを深く洞察することで、自然と「これは当たり前ではなく、有難いことなんだな」と思える感性が育っていく。
実はこの「恩」の字は、小学校五年生で習う漢字である。
子供の頃は当たり前に出来ていたことも、大人になるにつれて次第に出来なくなっていく。
不思議なことだ。
原因を正しく洞察するどころか前述の夫の例のように、自分に都合の良いように物事を解釈し、横柄になってしまうことさえある。
周囲のことに感謝が出来なくなった時は黄色信号。
感謝とは幸せを噛み締める力である。
「知恩」を胸に、目の前の一つひとつに感謝出来る自分でありたいものである。
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