其の十八
美しき日本語の世界。
日本人の「粋」を感じる隠語の数々
月が綺麗ですね
英語教師をしていた頃の夏目漱石が、「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子をみて、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ。」と言ったという逸話がある。
文豪が遺した詩的な愛の伝え方として、最近ではドラマなどでも引用されている有名な話だが、実際に漱石がそう言ったという文献や証拠は実はどこにも残っておらず、どうやらガセネタ(いわゆる都市伝説※)らしいというのが近年の有力な説だそうだ。
夏目漱石が実際にそう言ったかどうかは別として、「月が綺麗ですね」という言い回しには、日本語という言語の特徴である奥ゆかしさが感じられる。
どこか形容し難い情緒があり、直接的な表現を避ける日本人ならではの粋が感じられるのは確かだ。
だからこそ、日本最高峰の文学者がそんな表現をしていても「おかしくはないよな」と思う人が多くいたのだろう。
事実、著者自身、夏目漱石の言を疑う余地すらなかった。
これを書いている今ですら、どこかで信じたいと思っているくらいだ。
そんな調子だからこそ、この逸話が世間に広く流布したのだろう。
おかげで「月が綺麗ですね」は、今では立派に「I love you」の隠語として認知されている。
※典拠不明の、一種の伝説。
典拠どころか、このエピソードを記した文章自体、さほど古いものが見当たらないという。
イージュー☆ライダー
奥田民生氏の作品の中に「イージュー☆ライダー」という楽曲がある。
今でも旅番組などで頻繁に使用されている名曲だ。
この不思議なタイトル。
実は、業界用語で30を意味する「イージュー(E10)」と映画『イージー・ライダー』をかけたものだ。
そしてこれは、おそらく奥田民生氏が30才の時に作られた曲ではあるまいか。
人生のひとつの岐路である30才という節目に、『イージー・ライダー』の主人公と氏なりの緩さで、今後の目指すべき生き様を表現した秀逸なタイトルである。
しかし、このような業界用語はバブルの遺産のようで、今日日聞くことが滅多になくなってしまった。
「イージュー(30)」のような表現はそもそもは音楽業界で使われていた隠語で、クラシック音楽の楽器演奏者、ミュージシャンのギャラの名称として遣われていた。
数字の読み方ではなく、音符の「ドレミファソラシド」をドイツ語読みしたものである。
「ドレミファソラシド」を、アルファベット表記にすると「CDEFGAH(シー・ディー・イー・エフ・ジー・エー・エイチ)※」となる。
さらにこれらをドイツ語読みすると、「ツェー・デー・エー・エフ・ゲー・アー・ハー」、との読みになる。
これを数字に置き換え、隠語として業界に伝播した。
- 1=C……ツェー
- 2=D……デー
- 3=E……エー(※イー)
- 4=F……エフマン
- 5=G……ゲー
- 6=A……アー(※エーマン)
- 7=H……ハー
※よくみると最後がBではなくHになっているが、これは間違いではない。
ドイツ語で音名は CDEFGAHCとなる。
今回は音楽の話ではないので深くは掘り下げないが、ドイツ語の場合Bが使われていないのではなく「シ♭」が「B」になる。
また音名は全部で7つしかないため、8と9に該当するものがない。
あまりこれらの数字が遣われることはないようだが、一応次のような読み方が定義されている。
- 8=オクターブ(オクタ)
- 9=ナイン
8つ目の音は、1オクターブ上のCなのでオクターブ。
9は英語読みのままナイン。
この隠語を一番遣われる機会が、ギャランティ交渉の時。
江戸時代の武士道の名残りなのか、日本人は大っぴらにお金のことを話すことを恥ずべき行為だと考える節がある。
たしかに知らない人が聞けば、「ギャラが取っ払いのデーマンで」と言われても金額がわからない。
なるほど、たしかに有効だ。
隠語には迷彩の意味が込められているが、それより何より格好良いではないか。
「ギャラは取っ払いの2万円で」と言ってしまったら、なんだか野暮な気がする。
しかし隠語は格好良いのだ。
残念ながらこの隠語は、自由自在に操るようになるまでに相応の訓練と慣れる必要がある、誰彼構わず遣える言葉ではない。
だからこそ格好良い。
しかし使用上の注意も必要だ。
いくら本人は格好良いと思っていても、時代錯誤の場違いな言葉にもなりかねない。
また業界人でもない人間が、当然のように使う姿も微妙な気がする。
故に、使い所がすこぶる難しい隠語のひとつである。
隠語が廃れることは知能の低下を意味する?
2022年11月8日の夜は、日本全国で大規模な皆既月食が観測された。
多くの人が月を見上げ、神秘の天体ショーを楽しんだことだろう。
皆既となった月は、「赤銅色(しゃくどういろ)」と呼ばれる赤黒い色に見えるのだが、赤くなった月をみてあるツイートが話題となったのを、皆さんはご存知だろうか。
このツイートは、多くの人がいいね!とリツイートしたらしいが、反面で、まったく意味がわからない人も多かった。
というのも、著者がちょっとした雑談のつもりでこの話題を取り上げてみたところ、意味を理解できる人がまったくいなかった。
正直、哀しい気分でいっぱいになった。
何より、あまりの知識欲求の無さに絶望感が拭えない。
博識を気取るつもりはないが、この程度の教養くらいは最低限身につけておきたい。
たとえ知らなくとも、なぜそうなったのか興味を持てる人でありたい。
しかし哀しいかな、最近はそんなことは気にもならない、どうでもいいことらしい。
これでは落語のような、粋な会話なんて夢のまた夢。
ポンポンとテンポよく繰り返される言葉のやり取りには最低限の知能と知識が必要だ。
しかし無知という、最初の時点でつまづいた上に、知識欲がないから会話の裾野が広がらない。
どうりで日本が衰退するわけだ。
日本人の知能の低下をまざまざと見せつけられた気分になった。
その人が操る言葉は、その人の知識と知性と経験を物語る。
意識した言葉遣いを、普段から気に留めておきたいものである。
☆今すぐApp Storeでダウンロード⤵︎