落語『花筏』は「まわしを外せばただの提灯屋」という現実を忘れたバブル世代の幸せな勘違い
落語『花筏』
ある日、提灯屋の主人のところへ相撲部屋の親方がやってきた。
花筏という強い大関を抱え、羽振りがいいはずなのに元気がない。
提灯の注文だと思った主人だったが、どうもそうではないらしい。
なんでも、頼りの花筏が病気で、とても相撲などとれる状態ではないという。
「そこで提灯屋さん、お前さんに相談なんだが…」
力はまるっきりないが、見た目や背格好が花筏そっくりの提灯屋に、替え玉として興行相撲に出てくれないかというのだ。
場所は銚子。
興行元からはすでに金をもらっているので、今さら病気とはいえない。
数年に一度の興行に看板大関が行けないとなると、興行元も村の者たちもがっかりだ。
「相撲は取らなくてもいい。顔だけでも見せてくれないか」という興行元の頼みだが、花筏は歩くこともままならない。
「向こうは花筏の姿さえ見れば満足なんだから」
と、頭を下げた。
「そんな無茶なお願いされても相撲なんてやったことがないし、もし偽物だとバレたら大変なことになりますよ。あたしはお断りです」
「なに心配なんていらないさ。花筏本人を見たことのある者なんていないだろう。バレるわけがない。お前さんは紋付き袴姿でドンと座っててくれればいい。酒もいくら飲んだってかまわないよ」
尻込みしていた提灯屋も、ただ座っているだけでいい上に酒はいくら飲んでも構わないという好条件と、手間賃欲しさに頷いてしまった。
さて、銚子の祭相撲。
土俵に上がるのは力自慢の素人ばかり。
提灯屋はそれを座って眺め、夜は地元の接待漬け。
いい気分で六日が過ぎ、いよいよ明日は千秋楽というとき、とんでもない話が持ち上がった。
素人の力士の中に、六日間勝ちっぱなしの千鳥が浜という男がいて、話のタネに花筏と一番、相撲をとらせてくれというのだ。
「明日は千秋楽です。村の若い者に胸を貸すつもりで、なんとか花筏関にも相撲を取ってはもらえませんか?」
「お知らせしていたとおり、花筏は大病を患っておりまして」
「宿の者がいうには、花筏関は酒を毎晩一升飲むそうですが…」
毎晩大酒を食らっている提灯屋の姿を見られているなら、これ以上は断り切れない。
仕方なく親方は提灯屋にわけを話すと、案の定、
「約束が違う」
と、文句を言い始める。
逃げようとする提灯屋を、
「なあに心配はいらないさ。勝とうとせずに最初だけ強くぶつかって、ごろんと転べばいい。そうすれば見物人は、花筏は若者に花を持たせてくれたんだと勝手に解釈するし、お前さんもケガをしなくてすむ」
と、言いくるめる。
策を授けられてしぶしぶ相撲を引き受けた提灯屋は、部屋で転がる練習を始めた。
そのころ、一方の千鳥が浜の家では両親が涙ながらに無茶はやめろと息子を止めている。
相手は本物の力士、まともにぶつかったら、きっとお前は死んでしまう。
親想いの千鳥が浜、ここまで心配されては仕方ない。
明日は見るだけで、土俵には上がらないと約束した。
さて、翌日。
花筏が出るとあって、会場は満員御礼。
取り組みは進んで、いよいよ花筏対千鳥が浜の一番となった。
出ないと言った千鳥が浜だが、はやされ仕方なく土俵に上る。
いよいよ仕切りに入ったが、提灯屋は目をしっかりつむったままで、行司は呼吸が合わせられない。
長い長い仕切りにこらえきれず提灯屋が目を開けると、目の前には千鳥が浜の怖い顔。
思わず目から涙、口から念仏が出た。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…」
これを見た千鳥が浜。
「なぜ念仏を?もしや花筏は俺を殺す気では?」
花筏が、自分を投げ殺すつもりで念仏を唱えていると勘違い。
親の言うことを聞いてればと、こっちも後悔の涙と念仏。
おかしなことになったので、ヤケになった行司がいきなり、
「はっけよい」
軍配が返る。
勝負は始まったが、お互い腰が引けているからなんともおかしな立ち合いだが、親方のアドバイス通り提灯屋が転ぶつもりで手を伸ばすと、指が千鳥が浜の目に入って、はずみで後ろへひっくり返った。
その勝負を見た見物人たちは大歓声。
「さすがは花筏、いい張り手だ!」
張り手がいいのは当たり前。
「提灯屋ですから」
「国技」とさえ呼ばれる大相撲※。
昔のフィーバーぶりは桁違いに凄かった。
その証拠に、地方では大イベンには必ず素人の草相撲が催されていたという。
この噺のような事件が起きる可能性は十分にあったということだ。
人は権威や肩書きというものにすこぶる弱い。
だから人は見栄を張り、自分を必要以上に大きく見せようとする。
それは今も昔も変わらない。
権威や肩書きが無けりゃ詐称してでも作れってなもので、バレなきゃいいが、それがバレると滑稽でしかない。
自分を大きく見せている人の滑稽さといえば、「過去の栄光」という賞味期限切れの武勇伝を自慢げに話すオヤジ。
これが本当に厄介で…。
世の中のオヤジたちは知っているだろうか。
近頃では「最近の若者は」とは言わず、「最近のオヤジは」と言われているらしい。
どうやら最近は若者よりオヤジの方が駄目ということのようだ。
たとえば、バブルの追い風を自分の実力と勘違いし、いまだにその余韻で高給を食いつぶしているマウント大好きオヤジ。
噺の中で提灯屋が勝てたのは、肩書きにビビって、相手が勝手に滑ったり、運良く手が当たったりしたからである。
けっして実力で勝ったわけではない。
実力でないといえば、バブル世代の成功も、本人の突き出しではなく、時代の勢いという土俵の砂が味方しただけと思しき場合が往々にある。
あの頃の金星は、自分が強かったからではなく、土俵全体が自分の方へ傾いていたから。
生まれた時代が良かったというだけだ。
とはいえ、別にそのことを羨むつもりはない。
そんなことはどうでもいいことだ。
だが、それをご本人は「横綱相撲だった」と回顧するのがいただけない。
今は土俵がフラットになったどころか、実力主義という急勾配に変わっていることに、彼らだけが気づかず土俵際で足をもがかせている。
そう考えると、自分が偽物だと自覚して震えていた提灯屋は、それだけでずいぶんマシといえる。
対して現代の偽物大関たちは、自分が本物だと思い込んで土俵を塞いでいるのだからタチが悪い。
まわしを外せば、運が良かったただの提灯屋だということに、いまだに気づかない幸せな人々。
それで自己満足してくれているなら可愛いもの。
しかしそれを自分の実力と勘違し、人を見下してくるのはいかがなものか。
みんなうんざりしているよ。
年功序列?
そんな時代はとっくの昔に終わりを迎えている。
年長者が、ただ年上というだけで敬われる時代は終わった。
中身のない泡(バブル)なら、なおさらだ。
外側の紙ばかり立派に張り替えても、中に火が灯らなきゃただの暗がりでしかない。
おまけにマナーも悪けりゃ、モラルなんかあったもんじゃない。
ついでにエコ意識も欠如しているとなると、どこをどう尊敬したらいいのやら。
尊敬されたきゃ、まずはちゃんと実力を示さなくちゃ。
もちろん品性も大切。
今はそういう時代です。
「何せバブル世代ですから」
無いものを大きく見せるのは得意なもので。
自分を大きく見せるのもほどほどに。
※.「国技」とさえ呼ばれる大相撲
日本の「国技」は相撲とされているが、法律で定められたものではなく、歴史的・文化的に深く根付いた「事実上の国技」である。
1909年、両国に相撲常設館が完成した際に「国技館」と名付けられたことが、国技としての認知を広めた。
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