其の六十三
美しき日本語の世界。
「猫も杓子も」に化けた、江戸の粋な言語遊び
「猫も杓子も」とは
「猫も杓子も」は、「誰も彼も」「なにもかも」という意味の慣用句である。
大勢の人や物が、一様に同じような行動や流行に参加している状況を指し、肯定・否定の両方で遣われる。
この言葉の由来や語源にはいくつかの説がある。
有力なのは、「禰子(ねぎ)と釈氏(しゃくし)」説。
神社の神官の補佐(禰宜)と仏教の僧侶(釈子)のことで、身分や立場に関わらずみんな、という意味が変化したと考えられている。
他には「女子(めこ)と弱子(じゃくし)」説。
これは女や子供を含め、皆、という意味が変化した説。
また、文字通り「猫やしゃもじ(杓子)」のようなありふれたものまで、という説がある。
野暮を笑いに変える知恵、喧騒に宿る命のアンサンブル
現代では「誰も彼もが同じことをして」と、少し冷ややかなニュアンスで使われることが多い「猫も杓子も」という言葉。
しかし、その語源のひとつとされる「女子(めこ)と弱子(じゃくし)」という説に触れると、この慣用句の見え方がガラリと変わる。
「女子」は愛しい女性や妻を、「弱子」は幼く、まだ力のない子供を指す。
愛する妻や、か弱き我が子。
本来なら、慈しみをもって語られるべき存在である。
しかし日本人は古来より、大切なものを真正面から語るのを野暮として避ける傾向があった。
そこで登場するのが、落語の枕にも通じるような文字りのセンスだ。
「女子」を、気ままで身近な「猫」へ。
「弱子」を、台所にある日常の道具「杓子」へ。
重たい愛情や切実な日常を、あえて「猫」や「杓子」といったユーモラスな対象にすり替えてしまう。
この軽妙なステップこそ、江戸の町人が愛した「粋」という美学ではないだろうか。
落語の世界でも、深刻な事態を冗談でくるみ、笑いに変えてしまう知恵が描かれる。
「女房も子供も、みんな夢中なんだ」と素直に言うのは気恥ずかしい。
けれど、「猫も杓子も、そりゃあ大騒ぎよ」と言い換えれば、そこにはカラッとした明るさと、同時に「生活のすべてが沸き立っている」という臨場感が生まれる。
人間を、あえて動物や道具に例えて笑い飛ばす。
それは対象を軽んじているのではなく、むしろ「日常のすべてを等しく愛でる」という、懐の深い遊び心なのだ。
「猫も杓子も」という言葉を口にする時、我々は無意識に、江戸の昔から続く言葉を遊ぶ精神を受け継いでいる。
堅苦しい理屈を、猫の鳴き声や杓子の音のように軽やかな響きに変えてしまう――。
そんな粋な文字りの魔法が、この言葉にはかかっているのだ。
「女子(めこ)と弱子(じゃくし)」説を推す理由はもうひとつ。
かつて、歴史の表舞台に名を残すのは、力ある男性や権力者ばかりだった。
しかし、この言葉が生まれた背景には、そんな記録からこぼれ落ちてしまう名もなき人々――家を守る女性や、未来を背負う小さな子供たち――までをも、ひとつのうねりの中に等しく迎え入れようとする、柔らかな視線が感じられる。
お祭り、祈り、あるいは新しい時代の変化。
そこに「女子も弱子も」加わっているという光景は、社会の隅々にまでその熱気が届いている証であり、ある種の平和の象徴でもあったはずである。
「猫も杓子も」という音の響きは、時代を経てユーモラスなものへと変化した。
けれど、その深層に「誰一人取り残さない、等身大の命の営み」という美しさが隠れているのだとしたら?
そう考えると、街にあふれる流行や喧騒も、少しだけ愛おしいものに見えてくる。
そこには、今を一生懸命に生きる「女子」や「弱子」たちの、ささやかなエネルギーが満ちているのだから。
もの書く人のかたわらには、いつも猫がいた: NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。
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