ペットの殺処分問題
近年、ペットの殺処分が社会問題となっていたが、コロナ禍の巣ごもり需要でペット産業が拡大したことによって殺処分数はさらに悪化の一途を辿っている。
各自治体や省庁は「殺処分ゼロ」に向けたスローガンを標榜しているが、現状では目標に追いついていないのが現状だ。
コロナ禍で高まったペット需要
新型コロナウイルスの影響で巣ごもり需要が拡大した。
その波はペット需要にも及んでおり、ペット関連市場は大きな成長を遂げた。
ペットフード・ペット用品を合わせた国内市場規模は2019年度に4461億円(前年度比5.5%増)で、そのうち犬猫向けが8割以上を占める 。
ペットショップや医療などを合わせた全体の市場規模は約1.6兆円ともいわれる。
コロナにより外出を控える生活が長く続いた中で、近くのペットショップへ足を運ぶ機会が増え、その結果として購入が伸びたのがその要因と考えられる。
無責任な飼育者の増加
コロナ禍で自宅にいる時間が多くなり、癒やしを求めて犬や猫などのペットを安易に飼う人が増えた。
しかし、いざ飼ってはみたものの世話が大変などの理由で飼育放棄されるペットの数も急増した。
コロナ禍で安易に癒やしを求め新規でペットを飼い始めた飼い主には、1〜2週間で手放す人が多いという。
その理由が呆れるばかりである。
『こんなに鳴くとは思わなかった』
『こんなに臭いとは思わなかった』
『こんなに手がかかるとは思わなかった』
と、どれをとっても身勝手としか思えないものばかり。
しかしこの程度で驚いてはいけない。
『数週間で子犬(子猫)ではなくなった』
『家に着いたら吠えたので』
『元の生活に戻りつつある今、かまっている時間がない』
など、激しい怒りがこみ上げてくるような言い訳をする人たちまでいるようだ。
とある地方の犬猫保護施設では、感染が拡大し始めた頃にはコロナ禍の巣ごもり需要で引き取り手が急増した。
しかしわずかその数カ月後には逆に引き取ってほしい、という依頼が増えたという。
子犬(子猫)の可愛さに一目惚れをし、ペットショップから即決購入した子犬を数日後には保護施設に手紙つきで遺棄したという、信じがたい例も報告されているらしい。
保護施設のSNSには、かわいい犬の写真とともに「○日○時までの命です!」というような残酷な投稿が連日並ぶ。
簡単に動物の命をもてあそぶ人間が、こんなにも多かった現実を突きつけられて、驚くというよりただただ呆れ果てるばかりである。
命に期限がつけられるという狂った現状は、人間のエゴでしかないということを真剣に考えたい。
無責任な飼い主になり得る人の特徴を考察
ただ寂しいからとかただ可愛いからという安易な理由でペットを飼った人間の大半は、それと同じようか安易な理由で簡単に飼育放棄する。
そういう人間は孤独に耐えられない。
もしかしたら孤独を経験したことすらないのかもしれない。
誰でもいいからそばにいて欲しいタイプの人間だ。
寂しくなれば誰彼構わず一緒にいてくれる人を選ぶ。
友人や恋人を選ぶ際の判断基準も孤独を紛らわすのが主眼になるから、人をみて選ぶわけではない。
そばにさえいてくれたら誰だって構わないのだ。
だから薄っぺらい人間関係しか築けない。
共に暮らしたりつるんだりする理由が安直だから、当然その人たちとの繋がりも希薄になる。
自分は友達が多いと自慢している人間にこのタイプが多いのだが、そういう人が一番信用できない。
数多くいる友達とやらの中で、本当に困った時に助けてくれる人間が何人いるのか。
手を差し伸べてくれる人が果たして存在するのか。
人間とは綺麗事が大好きで、それほど生易しくはないのだ。
口では良いことばかり言うが、他人のために自分を犠牲にしてくれる人間など滅多にいるものではない。
少なくとも知人程度の関係性ではいるわけがない。
知人と友人の区別もつかない人間を信用できない理由はこれだ。
そうならないためにも、ひとりで自分を見つめ直す時間が必要になる。
ただ寂しいからという言い訳は捨てさり、孤独に耐えなくてはいけない。
「誰でもいいから」ではなく「誰かじゃなきゃダメ」という思考へ切り替える時間が必要なのである。
離婚率の上昇も同じ理由
日本の離婚率は約35%前後になっており、2019年度の厚生労働省の調査によると離婚件数は約20万9,000件にもなるようだ。
一方で、婚姻件数は約59万9,000件にものぼり3組に1組の夫婦が離婚しているというのが現状だ。
この統計をみても、安易な理由で安直に伴侶を選んでいるのが窺える。
寂しさを紛らわしたいがために、誰でもいいから一緒にいてくれる人を選ぶ。
いざ一緒に暮らしだした頃に、ようやく伴侶がどんな人間なのかを観察するようになる。
伴侶を知れば知るほど自分の過ちに気づき始める。
『こんなガサツだと思わなかった』
『こんなに神経質だとは思わなかった』
『こんなに乱暴とは思わなかった』
これでは無責任なペットの飼育者と同じだ。
孤独と向き合い自分を見つめ直す
そばにいる人間を選ぶということは、孤独と向き合うということを意味する。
何故なら選んだ相手の都合がいつも自分と合うわけではないからだ。
誘ったけど断られた、またはその逆で誘われたけど断ったなんてことはしばしばだ。
そんな時に安易に安直な相手を探すのではなく、相手がいないのならひとりでいるべきなのだ。
ひとりでいるということは存外に大切なことである。
常に誰かと一緒にいることは、常に集団心理の中に身を置くということで、それは非常に危険なことだと知らなくてはいけない。
赤信号、一緒に渡れば怖くないという心理は非常に危険な考え方なのだ。
正しくは心理なんかではなく集団催眠である。
今流行りの同調圧力も集団催眠によって生まれるといえば、危険性のほどはおわかりになるだろう。
もし一緒に渡った赤信号で自分だけ轢かれたなら、その時いったい誰の責任するつもりだ。
「みんながそう言ったから」なんて他人に責任転嫁したところで、自分だけ引かされた貧乏クジは何も変わらない。
誰かのせいにしたところで、誰も助けてくれないのが関の山だ。
そんなことにならないためにも、自分の意志をはっきりと持つべきで、他人に影響されない意志を持つためには、ひとりで自分と向き合う時間が必要になる。
そのための大切な時間のことを本稿では孤独と呼ぶ。
孤独は悪いことではない
孤独と聞くと、友達がいない寂しい人を想像するかもしれないが実はそうではない。
むしろ逆ではないだろうか。
ぞろぞろと連れだって何がしている人より、ひとりでテキパキ動いている人の方が格好良い。
ぞろぞろと連れだっている人の顔ぶれはまったく気にならないが、ひとりでテキパキ動いている人がたまに行動を共にするのはいったいどんな人なのか非常に興味がある。
孤独はひとりぼっちという意味ではない。
孤高なのだ。
無益な人とは連まないが、有意義な相手がいればもちろん連む。
これこそ「誰でもいいから」ではなく「誰かじゃなきゃダメ」という思考なのだ。
孤独=孤高の人になろう。
最後に
著者は2匹の愛娘(愛犬)に恵まれたが1匹は5年前に。
もう1匹は今年のはじめ虹の橋を渡った。
失ってはじめて気づいたことがある。
飼い主はペットに生活を与えていたんじゃない。
たくさんの幸せをペットから与えられていたんだ。
手間がかかるそれ以上の余りある幸せと温もりをもらった。
同時に後悔が襲ってくる。
ちゃんと天寿をまっとう出来たのか。
我が家にきて幸せに過ごせたのだろうか。
もっと幸せにしてくれる飼い主が他にいたのではないか。
いなくなってしばらく経った今でも、たまにそんなことを考えてしまう。
次の子を迎えることも考えなくもないが、ただ寂しいからではないのか?と自問自答を繰り返して未だに至ってはいない。
ただひとつ言えることは、次に迎える子がいるとするならその子は絶対に保護犬にしようということだ。
胸を張って愛犬家といえるように、自分に出来ることをしたいと思う。
本物の動物愛護家は、たとえペットが年老いてもその愛情は変わらないと思う。
実際、ウチの子も老犬になってからが愛おしくてたまらなかった。
パピーでなくてもいいのだ。
これを偽善者と呼ぶなら、いっこうに構わない。
是非そう呼んでくれ。
それで救える命があるのなら本望だ。
ペットに対して人間は絶対者だ。
絶対者にはすべての責任が伴う。
その小さな命は飼い主なくして生きてはいけないのだ。
ペットを飼うということは責任を持って命を預かるということを、人間はもう一度肝に銘じる必要があるのではないだろうか。
最後にコロナ禍で安易にペットを飼い、安易に飼育放棄した人たちにひと言。
命をお前の暇つぶしに使うな。
ご支援とご協力のお願い|NPO法人 犬と猫のためのライフボート
【プライバシーポリシー・免責事項・お問い合わせフォーム】 - ioritorei’s blog