...
...

ioritorei’s blog

完全趣味の世界

※当サイトではアフィリエイト・Google AdSenseによる広告を掲載しております。

新世紀エヴァンゲリオン 第壱話「使徒、襲来」

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は興行収入100億円を突破して終演を迎えた。

 

劇場公開も終わって久しいが、改めておめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロボットアニメでは初の偉業なのだそう。

 

…あれ?

 

エヴァってロボットアニメでいいのか?

 

何度も言うがエヴァといったら著者は、どうしてもまずTV版「新世紀エヴァンゲリオン」を思い出す。

 

もちろん劇場版の否定ではないし、庵野秀明監督をリスペクトしている前提で読んで欲しい。

 

劇場版の人気は昔と何ら変わりないが、昔の熱狂とは少し違う印象を受けた。

 

コロナ禍での公開だったのでそれも仕方ないと思うが、少しばかり大人しかったか。

 

劇場版「鬼滅の刃」の大ヒットで、エヴァの劇場公開日発表が霞んでしまったのが象徴的だった。

 

この結果はTV版の当時の盛り上がりを思い返すと、どうしてもみんな大人になったんだなぁ〜と感じざるを得ない。

 

TV版の人気はまさに熱狂だった。

 

エヴァンゲリオンはなぜあれほどの人気を獲得したのだろう?

 

何があそこまで我々を熱狂させたのか?

 

ずいぶん昔のことになるが、改めてエヴァの成功の理由を個人的に考えてみた。

(※作品が優秀である点は除外する。またこれは完全に個人の意見です。)

 

あれほど多くの人を熱狂の渦に巻き込んだ最大の要因は "入り口の広さ" だったのではないだろうか。

 

第1話の、よくわからない単語を並べ立て主人公と同じ心境・状況へと視聴者を落とし込む手法は、ガンダムの第1話で用いられた手法と類似している。

 

 

 

 

 

 

残念ながらガンダムではこの手法が一部のマニアにしかウケなかったから苦戦した。

 

時代が感性に追いついていなかったのだろう。

 

だがガンダム挫折の免疫のおかげなのか、エヴァ放送開始時での視聴者にこの手法はすんなり受け入れられた。

 

たとえ理解不能であってもとっつき難さは感じない。

 

むしろ、こちらの理解する時間などお構いなしでガンガン情報をぶち込んでくる庵野式の目新しさに感動すら覚えた。

 

加えて、少年少女×戦闘×ロボット(?)という鉄板の設定。

 

スピード感たっぷりの迫力ある戦闘シーンや、現実とリンクする世界観。

 

魅力的な登場人物たち。

 

序盤〜中盤までのストーリーはシリアスとコミカルがほどよく混在し娯楽性も抜群。

 

まだアニメがアンダーグラウンドな文化扱いされているような時代に、万人受けしそうな要素をありったけぶち込んだ。

 

なのに、だからといって視聴者におもねった印象はない。

 

まるで数字なんか気にしていないかのように、視聴者にまったく媚びていない。

 

だが視聴者は、意味がわからなくても面白い。

 

気楽に観れて、本気でも観れる作品だった。

 

TV版エヴァの印象は、最初そんな感じだった。

 

ただしそれは序盤から中盤までの話。

 

ちなみに前記事で記した「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」の第1話から出した重い雰囲気は、エヴァの場合第弐話からうっすら醸し出される。

 

 

 

 

進撃や鬼滅ほど重くはないし、すぐまた持ち直す。

 

物語の第1話はやはり入りやすい方が良い。

 

 

 

 

 

 

説明したようにエヴァの入り口は誰でも入りやすいよう大きく開かれたのだが、それ故にエヴァは最終的に《風呂敷を広げすぎた作品》と揶揄されるようになる。

 

理由は、広い入り口に対して出口が異常に狭かったからだ。

 

呑気に眺めていたアニメが、ある日突然哲学や倫理の講義に豹変した。

 

劇中で引かれまくったあらゆる伏線の上に、またさらに伏線を引いてゆく。

 

謎を10個ばら撒いたとしたらいったん1〜2個回収し、すぐまた10個ばら撒く。

 

結果、多くの視聴者が迷子になった。

 

今となっては、そもそも正しい出口を抜けられた猛者が居たのかどうかすら疑問だが……

 

これも庵野監督の思惑通りだったのだろうか?

 

はたまた偶然の産物か。

 

おかげで物語の結末をどう説明してよいのか正直よくわからない。

 

『この物語はこういう内容なんだよ』と、明確に説明出来る自信がない。

 

皆が『要するに』をあれやこれやと考察しているが、結局どれも推測の域を出ない。

 

制作陣ですらどんな話なのかをよくわかっていなかったのではないか?

(※「さようなら全てのエヴァンゲリオン庵野秀明の1214日〜」より参照。)

 

ただひとり、庵野秀明を除いて。

 

結局、答えは庵野監督の頭の中にしかなかったと思う。

 

TV版「新世紀エヴァンゲリオン」を観るたびに思う。

 

もしあの当時の庵野監督が、当時の感性のままに劇場版エヴァンゲリオンを描いていたら、もっととんでもない作品が出来たんじゃないだろうか、と。

 

もっともっと理解不能で、もっともっととんでもない作品が…

 

諸事情でそれが出来なかったことが残念のような、結果的にはこれで良かったような…

 

長い年月をかけようやく完成・完結させた世界中が注目している自身の大作を、一切観ようとしない庵野監督の姿は私には少し寂しげに見えた。

 

今回この記事を書くにあたり、大変恐縮ではあるが、あの庵野秀明エヴァを完結させた(完結できた…かな?)理由を推察してみた。

 

なんのことはない、庵野監督自身が14才からほんの少し大人になったからに他ならないのかもしれない。

 

ファンのひとりとしてそう感じている。

 

本当に終わってしまったのだな。

 

ありがとう、エヴァンゲリオン

 

そしてさようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

 

 

 

 

とは言ったものの、著者の中でエヴァンゲリオンは永遠に不滅だ。

 

だから当然、エヴァネタをまだまだ書く。

 

だって大好きだもの。

 

 

 

 

 

【※今回書いたことはあくまで個人的に長年思っていたことであり、エビデンス等は一切ございません。しかしエヴァを心から愛するファンの方には不快な思いをさせたかもしれません。

そのような方がいらっしゃったなら心よりお詫びします。しかし誤解しないでいただきたいねは、エヴァンゲリオンは私にとっても本当に大好きで大切な作品です。】

 

 

 

   

 

 

【プライバシーポリシー・免責事項・お問い合わせフォーム】 - ioritorei’s blog