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【大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年)】三谷幸喜脚本で茶化されてしまった人物たちの真実。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

三谷幸喜脚本で茶化されてしまった人物たちの真実

 

 

『鎌倉殿の13人』とは

 

 

『鎌倉殿の13人』は、2022年(令和4年)1月9日から放送されているNHK大河ドラマ第61作。

脚本は大河ドラマ3回目となる三谷幸喜氏。

2020年(令和2年)1月8日に制作発表が行われ、過去に大河ドラマ新選組!』『真田丸を手がけた三谷氏が脚本を担当し、小栗旬氏が主演することが発表された。

小栗氏は大河ドラマ初主演。

発表の際に三谷氏は2019年および2020年の作品に関し、出演者の不祥事による放送期間中の降板・代役立て・再撮影が続いたことに触れた。

三谷氏は執筆にあたり、日本史を知らない海外の人が見ても楽しめる「神代の時代」のドラマを書くことを目標とし、特にゲーム・オブ・スローンズをお手本にしたという。

また、物語の全体像はゴッドファーザーなどに影響を受けた。

平安末から鎌倉前期を舞台に、史書吾妻鏡をベースとした源平合戦鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きを、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公として展開する。

ユーモアを交えたホームドラマのような描写とともに、徹底して無情で陰惨な粛清劇が描かれる。

タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人を指している。

 

 

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三谷幸喜脚本の妙味こそが勘違いのもと

 

 

時代劇における脚本家の腕の見せ所が、歴史の空白部を埋めることである。

歴史の空白部とは、詳細が不明ということ。

事実が明確ではないから、空想の入り込む余地がある。

史実を基にした時代劇というのはストーリーが確定している。

だが歴史の空白部を埋める時だけは、仮説がまかり通る。

その空白部を三谷幸喜脚本では、実に三谷氏らしく上手に埋める。

例えば『鎌倉殿の13人』劇中における "源頼朝落馬シーン" は、実に秀逸な描写で表現されていた。

頼朝の死因には諸説あるが、件のシーンではすべての説の可能性を完全に否定しきっていない。

ただし脳障害を想起するような演技が見受けられたことから、設定の中では死因が決められていたような気がする。

あれはおそらく「歯槽膿漏が引き起こす脳梗塞死説」であっただろうと推察される。

また義時最初の妻・八重なる人物も、泰時の出自が不明なことから三谷幸喜氏が生んだ架空の人物である。

史実での泰時の母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみである。

このように脚本家は、歴史の隙間をさりげなく上手に埋めてくれる。

が、これが正史だと勘違いしてはいけない。

三谷幸喜脚本における大河ドラマとは、あくまでも史実を基した物語なのだ。

また三谷幸喜脚本で最大の魅力といえば、三谷氏ならではのコメディ要素である。

源頼朝存命中には「鎌倉殿どうでしょう」がTwitterでトレンド入りするなど、シリアスな展開の中にあっても、コメディ魂だけはけっして忘れない。

それが三谷幸喜脚本の魅力である。

だがその魅力のせいで犠牲になってしまう人物がいる。

史実では本当は凄い人なのに、脇役がためにコメディ化されて、誤解されてしまう人物たちである。

それではあまりに可哀想ではないか。

正しい歴史認識へと戻すためには、正確な歴史を知る必要がある。

 

 

 

三谷幸喜脚本の犠牲者

 

 

被害者ファイル①

北条時房(演:瀬戸康史)

 

 

北条時房鎌倉時代初期の武将。

北条時政の子。

北条政子北条義時の異母弟。

鎌倉幕府初代連署

文治5年(1189年)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連(ときつら)と名乗る。

同年、奥州合戦に従軍。

建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。

頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のための間諜の役割を果たしていたとも考えられる。

建仁2年(1202年)に時房と改名。

時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある。

建仁3年(1203年)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。

元久2年(1205年)、畠山重忠の乱では兄の義時と共に重忠討伐に反対したが、時政の命により関戸の大将軍として出陣する。

牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられる。

同年9月21日に駿河守に遷任し、承元4年(1210年)正月14日、武蔵守となる。

兄の義時は相模守であり、北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。

建暦3年(1213年)、和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦し武功を挙げ、戦後、その功績を賞され上総国飯富の荘園を拝領。

建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。

承久3年(1221年)、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。

泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。

元仁元年(1224年)に兄・義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する。

なお、吾妻鏡では伊賀氏の乱最中の6月28日に北条政子邸で大江広元の同席の下に泰時と時房が「軍営御後見」に任じられ、それが事実上の執権就任ともされる。

当初は、北条氏の嫡男である泰時と一門の長老である時房の間で主導権を巡る争いがあったらしく、翌元仁2年(1225年)の元旦の垸飯の沙汰を行った後に一旦上洛している。

しかし、同年に大江広元北条政子が相次いで死去すると再び鎌倉に戻り、以後は泰時と共に鎌倉で政務を執った。

貞永元年(1232年)に将軍・藤原頼経従三位に叙位されて政所を設置できるようになると、泰時と共に政所別当に就任したが、泰時は筆頭の別当を時房に譲った。

延応2年(1240年)死去。

享年66。

時房死去後の連署は1247年に甥北条重時が就任するまで空席となった。

容姿に優れた人物であり、所作もよく、源頼家源実朝の和歌、蹴鞠の相手をつとめた。

また後鳥羽上皇の前でも蹴鞠を披露し、それを上皇より気に入られて出仕するよう命じられ、京都で活動していたことがある。

この京都での活動、経験は、後に時房が六波羅探題として手腕を発揮する際に生かされた。

泰時との関係について歴史家の石井清文氏は「最高のパートナーであるとともに、互いに最強のライバルでもあった」と評価し、互いに協調に努めながらも必ずしも確執が無かった訳では無いと指摘している。

 

 

三谷脚本で一番の被害者?

 

三谷幸喜脚本の最大の魅力でもあるコメディ要素で一番の被害者ともいえるのが、瀬戸康史氏が演じる北条時房だろう。

ことあるごとにネタとオチにつかわれ、時房の存在は凄惨な物語の中で一服の清涼剤となっている。

これはこれで大変微笑ましいことである。

だが史実の時房は、実はとっても凄い人。

瀬戸康史氏の容姿の印象と相まって劇中では愛くるしいキャラと化しているが、実は歴とした武人であり、泰時と共に北条政権の礎を築いた、とても優秀な政治家でもあったのである。

『鎌倉殿の13人』の主人公が北条義時なので脇役に甘んじてボケ役に徹しているが、北条時房とは、本来なら主役をはれるほどの傑物なのである。

 

 

 

被害者ファイル②

北条泰時(演:坂口健太郎)

 

 

北条泰時鎌倉時代前期の武士。

北条氏の一門。

鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。

鎌倉幕府第3代執権《在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日)》。

御成敗式目を制定した人物である。

寿永2年(1183年)、北条義時の長男(庶長子)として生まれる。

幼名は金剛。

母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明。

父の義時は21歳、祖父の時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃である。

泰時が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。

頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。

頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。

そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。

しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えた。

吾妻鏡に収録されるこの逸話は、泰時の高邁な人柄と、頼朝の泰時に対する寵愛を端的に表した話と評されている。

ただし江戸時代後期の国学者・大塚嘉樹氏は『東鑑』(吾妻鏡の別称)において、吾妻鏡編纂者による北条氏顕彰のための曲筆としている。

一方、歴史学者の細川重男氏は、泰時の父・義時は「鎌倉殿家子」と呼ばれる門葉の次に位置づけられた側近集団に属し、かつその筆頭であったことを指摘して、頼朝は泰時が自らが選んだ側近(家子)の嫡男であったことを問題視したとしている。

また、細川氏は当時の北条氏嫡流の後継者は北条政範であり、その異母兄である義時は庶流・江間氏の当主、泰時はその嫡男であったとしており、特に吾妻鏡において元久元年(1204年)の義時の任官以前における泰時の苗字は全て「江間(江馬)」であることに注意を促している。

吾妻鏡によれば、建久5年(1194年)2月2日に13歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝から偏諱(「頼」の1字)を賜って頼時(よりとき)と名乗る。

後に泰時と改名した時期については不明とされているが、吾妻鏡を見ると、正治2年(1200年)2月26日条の段階で「江間大郎頼時」となっていたものが、建仁元年(1201年)9月22日条の段階では「江馬太郎殿泰時」(「間」と「馬」、「大」と「太」は単なる表記違いであろう)と変わっていることから、この間に改名を行ったものと考えられる。

この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元年(1199年)の直後であり、頼朝の死も関係しているものとみられる。

また元服の際には、同時に頼朝の命によって三浦義澄の孫娘との婚約が決められており、改名後の建仁2年(1202年)8月23日には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎えた。

その翌年に嫡男時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。

同じく建仁3年(1203年)9月には、比企能員の変で比企討伐軍に加わっている。

建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。

建暦2年(1212年)5月、異母弟で義時の前室の子であり北条家の嫡子であったと考えられる次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され、失脚している。

建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

建保6年(1218年)には父から侍所の別当に任じられる。

承久元年(1219年)には従五位上駿河守に叙位・任官される。

承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。

戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。

以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

 

 

人格者・北条泰時

 

劇中ではバカ正直で融通が効かなく、少し頼りないような人物として描かれている。

坂口健太郎氏も、わざとそのように演じているようにみえる。

それは主人公である父・義時との対比のために、泰時の純粋さをあえて誇張しているのだろうと推察される。

だがそれがとんでもない誤解を生んでいる。

史実の泰時は祖父や父の独善的な為政者ではなく、人格者として北条政権を磐石なものにした。

また御成敗式目を制定するなど、政治家としても非常に優秀な人物であった。

泰時が制定した御成敗式目の基本方針は、のちの武家社会に強く影響を与え、室町幕府や戦国時代の各大名達の法律にも受け継がれた。

また江戸時代には、寺小屋など教科書としても使われているほど優秀な法令であった。

承久の乱では、泰時が幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入っている。

『鎌倉殿の13人』で描かれる平和主義者の泰時からは想像もつかない武人ぶりである。

北条氏の初代を誰から数えるかがたびたび議論されるが、泰時が初代とされても何ら不思議ではないほどの人物なのである。

 

 

 

被害者ファイル③

安達景盛(演:新名基浩)

 

 

安達景盛(あだち かげもり)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。

鎌倉幕府の有力御家人

安達盛長の嫡男。

父の盛長は源頼朝の流人時代からの側近であり、幕府草創に功のあった宿老であった。

頼朝死後に跡を継いだ2代将軍・源頼家と景盛は不仲であったと見られ、頼家の代となって半年後の正治元年(1199年)7月から8月にかけて、頼家の命令を受けた中野能成や和田朝盛、比企三郎、小笠原長経らによって、留守中に愛妾を奪われ誅殺されようとした所を、頼朝未亡人・政子に救われるという事件が吾妻鏡の景盛の初見記事に見られる。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である吾妻鏡にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を正当化する意図があるものと考えられ、事実ではなく創作ではないかと疑う見解もある。

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、翌年7月に北条氏の刺客によって暗殺された。

景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。

比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の11月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている。

3代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。

牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)の誅殺や宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。

建暦3年(1213年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。

建保6年(1218年)3月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。

景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。

所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた。

翌建保7年(1219年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。

出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久3年(1221年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。

北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。

嘉禄元年(1225年)の政子の死後は高野山に籠もった。

承久の乱後に3代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた。

宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人・三浦氏の対立が激化し宝治合戦へと発展すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。

景盛は三浦打倒の強硬派であり、吾妻鏡によれば「三浦一族、傍若無人の勢い」と憤り、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責した。

時頼は三浦氏との和解を模索しており、景盛は連日時頼と談合を繰り返していたが、時頼が三浦氏殲滅の舵切りをすることはなく、自分の思う通りにいかない景盛は業を煮やして息子や孫に八つ当たりをした、と、この吾妻鏡の記述は解釈される。

景盛は三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んだ。

例えば、5月21日に三浦氏を糾弾する趣旨の立札が建てられたが、これも安達氏の策謀の一環だとされる。

安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。

また三浦泰村北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。

景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった。

この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。

幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治2年(1248年)5月18日、高野山で没した。

 

 

実は猛将・安達景盛

 

安達景盛の名を忘れてしまった人も多いかと思う。

劇中では景盛が京から容貌の素晴らしい妾を呼び寄せたことを聞きつけた頼家が、この女性を自分のものにしようとして揉めている。

独善的な為政者・頼家を印象付けるシーンではあるが、景盛の印象は薄い。

だが上司命令で妾を奪い取られそうになる男という、何とも情けない印象だけは残っていることだろうと思う。

しかしその印象は間違ったものだ。

史実の景盛は実に荒々しい人物なのである。

景盛はあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んでいる。

頼家のわがままで端を発した女性問題だけで、情けない人物と結論づけられる程度の人物ではないのだ。

 

 

 

被害者ファイル④

北条政子(演:小池栄子)

 

 

北条政子(平政子)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。

子は頼家、実朝、大姫、三幡。

 

 

北条政子と呼ばれたことはない?

 

本人が「北条政子」を名乗った事実は確認されておらず、あくまで後世の歴史用語に過ぎない。

「政子」の諱(成人名、天皇に対する名乗り)は、夫の死から19年後の建保6年(1218年)、朝廷が従三位の位を授与するのに際して、位記などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字(偏諱)を取って授けた名前であり、それ以前の名前は不明。

嘉字(良い字)+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、出生名に政子とつけることはない。

幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明。

中世の女性は外向けには実名(幼名または諱)を名乗らないのが社会通念だったから(忌み名のタブー)、娘時代の呼称はおそらく「大姫」(在地領主の長女の意)、公文書には「平氏女」(たいらのうじのにょ)と署名していたと推測される。

諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」。

現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、二代目将軍・源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になった程であった(吾妻鏡)。

親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名や仮名(通称)ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼ無い。

文部科学省教科書調査官・高橋秀樹氏の調べによると、明治・大正期にも「政子」「平政子(たいらのまさこ)」の表記はあっても北条政子はなく、ようやく昭和13年(1938年)の人名辞典に平政子との併記を確認できる。

なお高橋氏は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子」表記を採る書籍がある。

昭和15年(1940年)の日本史概説書では「頼朝の妻政子」となっている。

その後「北条政子」が一般化した理由は明確でないが、日本外史が時政の継室を「牧氏」と記載したように、江戸時代以来、実名が不明な過去の女性を、出自を明らかにするため実家の名字・苗字を付けて記載していた慣行が流用された可能性がある。

 

 

劇中でも北条政子と呼ばれていない?

 

思い返してみると、劇中で「政子」や「御台所」と呼ばれることはあっても、「北条政子」と呼ばれたことはないような気がする。

こういうところを徹底してくれているのは有り難い。

ただ、あまりにさり気なさすぎて観ている人間が気づかないのでは、せっかくの演出も意味がないのが難点ではある。

 

 

後世に語り継がれる政子の名演説

 

1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇が挙兵。

翌日には北条義時追討の宣旨が発せられ、承久の乱が勃発する。

鎌倉には5月19日にその報がもたらされ、御家人らの動揺は隠せない状況に陥る。

そんな御家人らに尼将軍・政子は、安達景盛に代読させ源頼朝の恩顧を訴えた。

吾妻鏡によると、

故右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いもの。

感謝の気持ちは浅くないはず。

しかしながら、反逆者が事実でない事を訴え、道理からはずれた院宣が発せられた。

名声を大切にしようと思う者は、藤原秀康・三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。

ただし、後鳥羽上皇のもとに参ろうと思う者は、今すぐ申し出なさい。

これを聞いた者たちは、命を懸けて恩に報いる決意を返答したのだと伝えられている。

涙で返答できない者もいたのだとか。

また、軍議で出た箱根・足柄で徹底抗戦するという慎重論に対しては、「速やかに上洛せよ」と命じてもいる。 

 

 

政子の演説は秀吉・家康も引用するほどの名文

 

政子の演説はのちに秀吉や家康も引用するほどの名文として、今でも語り継がれている。

特に「その恩は山よりも高く、海よりも深いもの。」という文言は、アレンジが加えられ多くの人に引用されている。

 

 

頼朝との夫婦漫才からの脱却

 

三谷幸喜脚本の被害者と呼ぶには、少し大袈裟かもしれないが、政子の印象は大泉洋氏が演じた源頼朝との夫婦漫才感が非常に強かった。

頼朝に側室を持つことを許さないほど嫉妬心が強いことから、どうしても苛烈な女性という印象が先行してしまうが、頼朝とは往年の名お笑いコンビのような掛け合いを見せてもいる。

そんなコメディ要素も、頼朝が亡くなると影を潜める。

このままいけば北条政権を救った名演説の頃には、政権を支える女傑としての雰囲気を纏っていることだろう。

 

 

 

被害者ファイル⑤

比企能員(演:佐藤二郎)

 

 

比企能員が当代を務める比企氏は、藤原氏の流れをくむ豪族・武家

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡東松山市)を領し、鎌倉幕府の有力御家人となる。

藤原秀郷の末裔を称する。

一族は族滅したため詳細な史料が残らず、系譜も明らかではないが、一族である比企尼源頼朝の乳母を務めた関係により、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。

比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となったことから将軍外戚として権勢を強めた。

しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起き、一族は滅亡した。

 

 

演技のクセに惑わされるな

 

比企能員を演じた佐藤二郎氏。

クセの強い演技が印象的な役者さんである。

真面目な演技も出来るはずなのに『鎌倉殿の13人』では、持ち前のそのクセの強い演技を、ちょいちょいぶち込んでいた。

それがどうしてもコメディのように見えてしまう。

おかげで比企能員を陽気なおっさんだと印象付けでしまったような気がしてならない。

またまんまとホイホイ誘い出されて呆気なく殺害されてしまう描写からも、比企能員が単純な人物のように映ってしまったことだろう。

『小代文書』という史料では、たしかに能員が単身・平服で名越邸を訪れた様子が書かれているが、北条氏征伐を企てたという能員が、敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろうとの見方がされているのだ。

敗者に口なし。

しかし散り際をご覧になった方はお分かりだろう。

一切のコメディを捨てた佐藤二郎氏渾身の比企能員の最期は、本作屈指の名シーンになったのではないだろうか。

 

 

比企氏は滅亡していない?

薩摩・島津家のルーツは比企一族

 

島津家初代当主・島津忠久は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。

鎌倉幕府御家人

島津氏の祖。

本姓は惟宗氏で惟宗忠久(これむね の ただひさ)、また後年には藤原氏も称した。

出自・生年については諸説ある。

忠久の出自については、『島津国史『島津氏正統系図において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)の子とされている。

そのため頼朝より厚遇を受け地頭に任じられたとされている。

忠久の実父については惟宗広言であったとする説もあるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説が有力であり養子であったとされている。

その場合の実父候補に関して、忠久や弟・忠季の名から、惟宗氏で「忠」の字を持つ惟宗忠康が父親であるとする説が存在する。

母親に関しては、忠久は建仁3年(1203年)の比企能員の変に「縁坐」(連座)して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図に記されているとおり比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。

軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる。

これに対して、『吉見系図によると丹後内侍は「無双の歌人」であったとされ、忠久の孫、曾孫、玄孫にあたる越前島津氏の忠景、忠宗、忠秀が歌人として有名である。

また忠久の生誕地である住吉大社は航海の神として信仰されているが、当時は和歌の神としても崇敬されており、承元2年(1208年)の住吉社歌会合にも参加したことが知られる女房三十六歌仙の一人・宜秋門院丹後が摂津源氏の出身でもあることから、宜秋門院丹後が忠久の母であるとの説も提示されている。

生年については『島津系図などによると治承3年(1179年)とされているが、治承3年時点で山槐記玉葉に「左兵衛尉忠久」として記載されていることから、1179年には任官されるに足りる成人男子であったと思われるので、生年は治承3年より十数年以上遡っているものと推定される。

 

 

幕末の島津家の強気の理由は鎌倉時代にあり

 

時は幕末。

幕府に強気な態度を取り続けた薩摩藩

その強気の根拠こそ、『鎌倉殿の13人』の舞台である鎌倉時代にある。

島津が比企の一族ならば、頼朝の血縁である可能性が非常に高いからだ。

征夷大将軍は代々源氏が踏襲してきた役職である。

もし本当に頼朝の血を引いているのなら、島津家には徳川にとって代われる大義名分がある。

関ヶ原でもそうだったが、徳川が島津を特別視した理由は、実は鎌倉時代にあったのかもしれない。

 

 

 

あとがき

 

 

本稿はあくまでも史実に基づいたものであり、三谷幸喜脚本『鎌倉殿の13人』を否定するものではない。

大河ドラマというのは、どのように捉えるかで受ける印象はガラリと変わる。

歴史ドラマとして観るなら、違和感は否めないだろう。

だが『鎌倉殿の13人』に限れば、あくまでも史実を基にした物語なのある。

ならば、すべてが史実に基づいているわけではないということを理解しておくことが必要だ。

三谷幸喜脚本は秀逸だ。

伏線の引き方とその回収法には、目を見張るものがある。

陰湿な陰謀で満ち溢れ、血で血を洗うような凄惨な物語の中でも、絶対にコメディ要素を忘れないことも素晴らしい。

次はどんな手で歴史の空白部を埋めてくれるのか。

三谷幸喜氏のことだ。

きっと最後まで楽しませてくれるはず。

 

 

 

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