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ioritorei’s blog

完全趣味の世界

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【大河ドラマ『鎌倉殿の13人』】策謀に散っていった者たちから学ぶ「名こそ惜しけれ」の精神美学。

 

 

 

 

精神美学

命を惜しむな、名こそ惜しめ

 

 

退行する日本人の倫理性

 

 

違法行為・データ改ざん・情報隠蔽・無差別殺人・無縁社会……。

どれも倫理観を疑う事件ばかりだ。

日本人は元来高い倫理観を持っていた。

だから海外ではまず不可能であろう、無人販売店なるものが登場した。

しかし昨今では、代金を支払わないで商品だけ持ち帰ってしまう、低俗な窃盗事件が相次いでいるらしい。

真面目で誠実といわれてきた日本人は、今やどうなってしまっているのか。

現代の日本社会は損得という価値観に覆われ、「自分さえ豊かに過ごせればいい」というような利己主義がはびこっているようにみえる。 

現代において、日本人の善悪の物差しはどこにあるのか?

そして人を思いやる利他の心を育んでいくために、今大切にすべきものは何か?

それを大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場し、信念のために散っていった武士の心意気から学んでみたい。

 

 

鎌倉殿の13人 完結編 NHK大河ドラマ・ガイド

鎌倉殿の13人 完結編 NHK大河ドラマ・ガイド

 

 

 

 

 

 

 

日本人の誇り

「名こそ惜しけれ」の精神

 

 

「名こそ惜しけれ」鎌倉武⼠を象徴する⾔葉として知られている。

人、ご先祖様、自分に対して「恥ずかしいことをするな」という意味である。

平安時代中期以降、生まれながら苦労を知らず、様々な争いごとに自ら汗をかいて正す気概を無くした貴族政治が続き、徐々に国が荒れていった。
これに対して、貴族の支配を逃れようと武装開拓農民が各地に発生する。

これらの武装農民は、貴族と異なり後ろ盾となる権威を持っていなかったため、領地の民の⽀支持を得なければ勢⼒を維持・拡⼤させることができなかった。 (織⽥信⾧の登場まで武力の中心は耕作農民だった)

勇猛でなかったり、人としての模範足りえなければ領地の民は従わず、領地を守ることができずに滅んでいった。

こうした背景から武装農民の間に「名こそ惜しけれ」という精神美学が生まれた。

この己を律することの美学を土台として、民に模範となることを義務づけされた、農民のDNAを持った武⼠が政権をとった鎌倉時代から、日本は中国や朝鮮と異なった歴史を歩みはじめることになる。 (戦国時代、ポルトガル宣教師は「日本⼈は他のアジアの国と異なり賄賂や盗みを嫌い、この国の指導者層は他国の侵略に対して、率先して命を賭して戦うだろう」と記録している)

武士の美学は次第に日本人全体のものとなっていき、日本人の基本的な民俗的形質を形作るようになる。

明治維新で武士階級は消滅したが、結果的には国民全体に支配階級である武士の血がばら撒かれることになる。

これは世界でも稀な出来事だった。

勤勉で礼儀を重んじ、公のために自分を律する姿勢。

恥ずかしい仕事はできないという職人気質。

お天道さまが見ているという健全な自己抑制の特性は、現代の完成度の高い国内インフラ、農産物、工業製品、基礎科学分野等に顕れている。

この事実から、「名こそ惜しけれ」の言葉自体は忘れられても、庶民の隅々までこの言葉の持つ本質が失われていないことがわかるだろう。

 

 

 

武士の発生

 

 

武士の世が始まる前は、平安朝の国家も奈良朝の国家も共に律令体制の世であった。

律令制とは、日本国の農地がみな公地であり、日本国の民がみな公民であるという意味で、公民である農民は国家によって所有され、配分された公地を耕し、国の規定どおりの税としての稲を納めなければいけなかった。

一種の一国社会主義であったと言っていい。

後の世に「武士」と呼ばれる人たちは、もとはこの墾田という制度のもとで開墾した農地を私有した開発領主たちだった。

しかし、"私有" といってもあくまで律令体制下であるため、私有権を合法化するには京の公家や寺社勢力の名義が必要だった。

もし公家や寺社が出来心をおこせば所有権はたちまち取り上げられてしまうため、開発領主たちは公家たちの機嫌を取り結ぶため、京に上って公家の番犬として無償で奉公していた。

また私有が公的なものでないため、仮に開発領地を奪い取ろうとするものが現れた場合や相続で揉めた場合、行政による介入や制止は期待できず自力で土地を守るしかなかった。

 

坂東にあっては、血で血を洗うという。
理由は土地である。

原因は、勃興してきた武士という新興階級の土地私有権が、国法のうえで認められていないところにある。

さらにこの階級が若すぎるために、その相続法が私法として確立せず、多分にあいまいである点にも原因がある。

 

義経記』より

 

墾田の私有はこのような際どさの中でかろうじて成り立っており、このため開発領主たちは自分の "一所" に対する私有権を、"懸命" に主張し続けなければならなかった。

この "私権の主張" は様々な形で具象化した。

例えば鎌倉武士たちが合戦の最初に必ず名乗り合うのも、田の所有権を主張するためだ。

武士たちの甲冑も然り。

中世以降の日本の甲冑は、世界的にみてもその美しさは際立っている。

小さな鉄板が色鮮やかな糸で縅(おど)され、色遣いのバリエーションも豊かで、赤糸縅、紫裾濃縅、萌黄匂縅など、そのいちいちが非常に凝っていて華麗だ。

この甲冑の華麗さは、私権の主張と無関係ではない。

「自分は他と違う」ということを、装飾でもって示したのだ。

平家物語では、武将が登場すると必ずそのいでたちを述べる。

たとえば1184年に源義経が上洛し、後白河法皇に拝謁するときの様子を以下のように描写している。

 

九郎義経其の日の装束には、赤地錦の直垂(ひたたれ)に、紫裾濃(すそご)の鎧きて、鍬形うつたる甲の緒をしめ、こがねづくりの太刀をはき… 

 

七五調の歯切れのよい文章から、匂い立つような凛々しい若武者の姿が目の前にありありと浮かんでくるようである。

"己" の主張である装束は、何にも勝る人物描写になるのだ。

そしてこの名誉希求の究極の表現が、戦場での「死への潔さ」であった。

自分の名を声高に宣伝して戦う以上、敵に背を向けるような不名誉な振る舞いはできない。

名を背負って戦う武士たちの脳裏には、常に「命惜しむな、名こそ惜しめ」という言葉が刻まれていた。

前述した華麗な甲冑は、単に防御を目的としたものではない。

自分の潔い死に様を美しく飾るための装飾でもあったのだ。

 

 

 

武士という人間像

 


司馬遼太郎氏はその著書の中で、「名こそ惜しけれ」という考え方が日本人の倫理規範の元になっていると述べている。

 

武士という人間像は、日本人が生み出した、多少奇形であるにしても、その結晶の見事さにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。

「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」という坂東武者の精神は、今も一部の清々しい日本人の中で生きている。

ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に、この一言で対抗できる。

 

司馬遼太郎

 

「名こそ惜しけれ」とは「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできないという意味」であり、武士道として日本人ルーツとなり背景となる心の持ち方である。

「名」は自分自身の存在そのものであり、生きざまを映すもの。

だからこそ、その名を汚してはならじ、その名において誇り高く生きるべし、と考えたのだ。

「名こそ惜しけれ」とは、もともと壇ノ浦の戦いを描いた平家物語の一節。

 

天竺震旦にも、日本我が朝にも、並びなき名将勇士といえども、運命尽きぬれば力及ばず。

されども名こそ惜しけれ

東国の者どもに弱気見すな。

いつの為にか命をば惜しむべき。

いくさようせよ、者ども。

 

平家物語』より

 

恥ずかしい行いや卑怯な振舞いは、自分自身を辱めるものである。

そんな鎌倉武士の精神が、その後の日本人の考え方や生き方の大きな礎となり今日に至っている。

たとえ誰が見ていなくても、自分自身の行いは天が知り地が知っている。

何よりも、己の名にかけて誇れるものであるべきだと捉えているのだ。

 

 

 

源平合戦に垣間見る武士の潔さ

 

 

源平合戦には、この「名こそ惜しけれ」の精神がそのまま結晶化したような見事な人物像が次々と登場する。

屋島の戦いで有名な「扇の的」。

義経の弓流し」は、当時の武士が「名こそ惜しけれ」の精神美学をどれほど重んじていたのかを物語る。

 

源氏は勝ちに乗じて、馬の腹が浸かるほど海に乗り入れて平家軍を攻めた。

源氏の兵たちが平家の舟から繰り出される熊手を太刀や薙刀で払い除けながら戦っていると、義経はどうしたことか弓を海に落としてしまった。

義経はうつ伏して鞭でかき寄せながら、命を危険にさらしてまで拾おうとするので、味方の兵たちは「お捨てなされ、お捨てなされ」といったが、ついに拾い上げると、義経は笑いながら帰ってきた。

源氏の兵はみな呆れて、「たとえ高価な武具であろうと、命には代えられません」というと、義経は、「弓が惜しくて拾ったのではない。私の弱い弓を敵が拾って、〈これが源氏の総大将・九郎義経の弓か〉などと嘲笑されるのが悔しいからこそ、命を賭けてでも拾ったのだ」
というと、皆またこれに感動した。

 

平家物語』巻十一より「弓流」を口語訳

 

源義経の作戦家・軍事指揮官としての能力は世界戦史の中でも際立っている。

しかし体格に恵まれなかったために、個人的な武芸はさほど優れず、弓も張りの弱いものを用いていた。

弱弓が敵に知られれば義経自身だけでなく、率いている源氏軍をも辱めることになる。

源氏の武者たちは、命を懸けて自分たちの名誉を守ろうとした大将の姿勢に感動し、義経のためならば命も惜しくはないと一層奮起した。

「命惜しむな、名こそ惜しめ」という鎌倉武士の思想を象徴する逸話である。

源平合戦における武将たちの潔さは、平家物語義経記などを通して後世に語り継がれ、目指すべき理想の人間像として人々の意識に強く根付いていった。

 

 

 

『鎌倉殿の13人』から学ぶ

策謀で散るも見事歴史に名を残した武士たち

 

 

上総広常

 

房総平氏惣領家頭首。

上総国の公領・庄園は上総氏がそのほとんどを所領化しており、上総広常はかかる一族の家督、惣領として、かつ上総国衙最有力在庁たる「権介」として、ほぼ一国規模で封建的軍事体制を確立しつつあった。

源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨む。

寿永元年(1182年)になると頼朝との対立が激しくなったとされているが、対立が激しかったのは寿永元年以前であり、寿永元年になるとむしろ両者の関係は改善されたとする指摘がある。

寿永2年(1183年)12月、謀反の企てがあるとの噂から頼朝に疑われた広常は、頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時に鎌倉の御所内で暗殺された。

景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤をとびこえて広常の首を搔い切ったとされる(愚管抄より)。

嫡男・上総能常も同じく討たれ、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。寿永3年(1184年)正月、広常の鎧から願文が見つかった。

願文には以下のことが記されていたという。

 

一、三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること
一、三箇年のうちに、神殿の造営をすること
一、三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること

これらは頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものであること

 

そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したとされる。

もっとも願文発見の逸話も広常の粗暴な振舞いの逸話と同様、鎌倉時代後期編纂の吾妻鏡にしか見られず、信憑性は不明である。

広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。

頼朝に宣旨が下って東国行政権が国家的に承認されるに及び、元来頼朝にとっての最大の武力基盤であった広常が、かえってその権力確立の妨害者となっていたことが謀殺に繋がったといえる。

頼朝政権内部では、東国独立論を主張する広常ら有力関東武士層と、頼朝を中心とする朝廷との協調路線派との矛盾が潜在しており、前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。

寿永二年十月宣旨により頼朝政権は対朝廷協調路線の度合いを強め、宣旨直後に東国独立論を強く主張していた広常が暗殺されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている。

また、広常は以仁王の令旨とともに彼の遺児である北陸宮を擁しようとした点では「反中央」「反朝廷」ではなかったが、北陸宮を擁する木曾義仲との接近が頼朝に警戒され、頼朝と義仲の関係が破綻するとともに「親義仲」とみなされた広常が誅殺に至ったとする見方もある。

慈円愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」というのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。

 

 

畠山重忠

 

武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠

比企氏滅亡後、上洛して京都守護となった娘婿の武蔵守平賀朝雅に代わって北条時政武蔵国務を掌握するようになると、重忠と時政は鋭く対立するようになる。

『明月記』元久元年(1204年)正月18日条によると、京で「時政が重忠と戦って敗北し山中に隠れた。大江広元がすでに殺されたとのことだ」という誤報が流れるなど、両者の対立は周知のこととなっていた。

同年11月、京の朝雅邸で、将軍実朝の妻となる坊門信清の娘を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた席で、重忠の息子の重保が朝雅と言い争いとなった。

周囲の取りなしで収まったが、翌日には重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。

そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。

なお、吾妻鏡では実朝の正室を迎える使者として上洛した御家人の代表を政範1人としているが、『仲資王記』元久元年11月3日条によると時政もともに上洛していたことが確認される。

『島津家文書』によると、時政は重忠父子を勘当したが、翌元久2年(1205年)正月に千葉成胤のとりなしによって両者はいったん和解している。

だが、これは一時的なものだった。

同年6月、時政は重忠が謀反を企てたとして、息子の義時・時房に重忠討伐を諮り、吾妻鏡によると2人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。

重忠の従兄弟の稲毛重成(時政の娘婿)が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍・実朝は重忠討伐を命じた。

なお吾妻鏡におけるこの件は、その後北条政子と義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。

1898年(明治31年)に原勝郎氏は、吾妻鏡の性質及其史料としての價値』において、

 

若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば

始めに處女にして終りに脱兎たる者か

怪むべきの至なり

換言すれば

かゝる矛盾を來す所以は

吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりして

かゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし

 

と書いており、以降の吾妻鏡研究では曲筆の代表例とされる。

ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。

6月22日、鎌倉にいた重保は謀略をもって殺された。

この時、重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて菅谷館を出て鎌倉に向かう途上にあった。

武蔵国二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で義時を大将軍とする数万騎が自分に差し向けられたことを知った重忠は覚悟を決め、わずかな兵で踏みとどまって義時の大軍を相手に奮戦。

愛甲季隆に射られて討ち死にした。

愚管抄には重忠に組み付いてくる者がいなかったため自害したと記されている。

享年42。

合戦後、義時は送られてきた重忠の首を見て「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と悲嘆にくれた。

そして、「謀反を企てることすでに虚誕」「讒訴によって誅戮に逢へる」と、重忠討伐を讒訴によるものと断じ、父時政の所行を糾弾したと吾妻鏡には記述されている。

 

 

和田義盛

 

和田義盛は鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。

治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。

平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。

頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。

しかし建暦3年(1213年)2月。

義盛が上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児(栄実)を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が露見(「泉親衡の乱」)。

関係者の自白から義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与が明らかにされた。

3月、義盛は鎌倉へ戻って実朝に子や甥の赦免を願い出て、子は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。

助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を与えた。

胤長は陸奥国へ配流となり、鎌倉の邸は没収された。

義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される慣わしであるとして自分に賜るよう求めた。

この願いは聞き届けられるが、そのすぐ後に義時は乱の平定に手柄のあった自身の家人・金窪行親と安東忠家に胤長旧邸を下げ渡してしまった。

重ね重ねのこの義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。

鎌倉では流言飛語が飛び交い、騒然とした。

4月27日、憂慮した実朝は使者を義盛の邸へ送る。

使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございませんが、相州(義時)のあまりの傍若無人について仔細を訊ねるべく若い者たちが用意しており、私は何度も諫めているのですが聞き入れようとしません。すでに一味同心しており、もはや私の力は及びません」と答えた。

『明月記』建暦3年5月9日条には、去る春に謀反(「泉親衡の乱」)を起こした者が結集しているとの風聞・落書があり、その首謀者は義盛である。

そこで義盛は自ら弁明し、実朝の許しを得た。

しかし御所では義盛粛清の密議が行われていた。

その動きを察した義盛はさらに兵を集め、謀反の計画を立てたとある。

『保暦間記』には義盛の息子たちが頼家遺児の擁立を謀り、義盛もそれに同意したことから合戦となったとしている。

挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主・義村であった。

義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いた。

だが義村は弟の胤義と相談して、変心して義盛謀反を義時に通報した。

『明月記』は義盛と義村がそれ以前から対立関係にあったとしており、義村は当初から義時に内通していた可能性が高い。

愚管抄は「義盛左衛門と云う三浦の長者、義時を深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記しており、京都では叔父・三浦義澄死後の三浦一族の家長は、義盛と見ていたと思われる。

5月2日、義盛は一族と共に挙兵。

鎌倉で激しい市街戦が展開された。

武勇で知られる和田一族は奮戦し、中でも三男の朝比奈義秀は最もめざましく戦った。

だが義時方には新手が次々に到着し、夜までに和田一族も疲れ、由比ヶ浜へ後退して援軍を待った。

翌3日朝、横山党が到着しその他の味方も到着して、再び勢いを盛り返した。

和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は、将軍実朝の名で御教書を発する。

これに多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返した。

夕刻までに和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息・義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。

そこへ大江義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られた。

享年67。

子の義重、義信、秀盛は討ち死にするが、常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場を脱して落ち延びた。

鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。

義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という供養塚(由比ガ浜3丁目4-7)と地名が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

己の信念を貫き通し、信念のために散る

 

 

上記の三人は『鎌倉殿の13人』の劇中でも、特に惜しまれつつ退場した武士たちだ。

三人に共通しているのは、警戒され謀殺されるに相応の実力者であること。

最期は己の信念を貫き通したこと。

そして全員が濡れ衣を着せられたか、言い掛かりをつけられて滅びたこと…と、考えられている。

上総広常上総国の公領・庄園のそのほとんどを所領化していた、当時の頼朝軍の最大勢力の頭首。

誰よりも関東の自立を望んでおり、その信念のため煙たがられ謀殺されたと考えられている。

畠山重忠は武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」とまで称された名将。

讒言による逆恨みがキッカケで立場を悪くし、言い掛かりをつけられて滅亡にまで追いやられているが、その根幹には領国争いがあったと推察される。

滅びはしたが畠山重忠もまた、意地を貫き通し歴史に名を残した。

和田義盛は鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると、初代侍所別当(軍のトップ)に任じられたほどの猛者だった。

しかし身内の不手際で下手を打ち、不服を強訴で表してしまったために警戒され、そのまま策謀の渦に巻き込まれる。

義盛自身は策謀による挑発に、それでも耐えようとした節があるが一族は違った。

和田の乱については権力争いのようにも受け取れるが、根底には武士としての意地があったように感じてならない。

 

 

 

歴史は勝者が語り、真実は庶民が語る

 

 

前述した三人の武士は歴史的には皆、敗者なのだろう。

彼らの言い分が正しく理解されることは、おそらくない。

しかし散っていった者たちの方が潔く見えるのは何故だろう。

そこに美学があったからではないだろうか?

人の命は短く儚い。

人生100年の時代に突入したといっても、人類の長い歴史の中ではほんの一瞬の出来事である。

しかし彼らはおよそ900年という長い時を、いまだに生き続けている。

それもこれも、命を惜しまず名を惜しんだ賜物ではないだろうか。

そしてそれを世間が…庶民が肌で感じていたからこそ、彼らは後世に名を残した。

それに引き換え、現代の薄汚い倫理観は見るに耐えない。

誰も彼もが見苦しいほど逃げ回り、責任から逃れようとする。

倫理観の低俗化が国を滅ぼそうとしていることに、気づいてすらいない。

このままでは日本は確実に滅び、何処かの属国に成り下がるだろう。

今こそ、古きに学ぶべき時なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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