『鎌倉殿の13人』から学ぶ歴史の面白さ
NHK2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」メモリアルブック (TVガイドMOOK)
鎌倉幕府、権謀術数の中心人物
大江広元
末裔はあの有名武将
大江広元(旧字体:大江廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。
はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。
生涯
久安4年(1148年)に生まれる。
生年は『吾妻鏡』や『鎌倉年代記』、『関東評定伝』などが嘉禄元年(1225年)に78歳で死去したとする記事を載せていることからの逆算である。
なお、『尊卑分脈』では嘉禄元年に83歳で死去し、生年は康治2年(1143年)としている。
広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。
『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。
しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。
当初は中原姓を称し、中原広元(なかはらのひろもと)といった。
大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のことである。
この折、改姓宣旨を願った申状が『吾妻鏡』閏6月14日の条に載っているが、その申状(建保4年6月11日付、宣旨は同年閏6月1日)では、養父中原広季に養育された恩はあるが、大江氏の衰運を見逃すことはできないとして実父・大江維光の継嗣となることを望んでいる。
広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。
寿永2年(1183年)10月に親能は源義経の軍勢と共に上洛し、翌元暦元年(1184年)正月にも再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。
その親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。
さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。
『吾妻鏡』文治元年11月12日の条によると、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるという。
正治元年(1199年)の頼朝死後は、後家の北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与した。
承久の乱の際は嫡男・親広が官軍についたため親子相克する。
『吾妻鏡』は、広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。
和田合戦に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権の義時とともに「連署」をした文書が存在する。
また頼朝が強いつながりを持っていなかった土御門通親などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになっている。
こうしたことから、広元の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占めるものだったことが指摘されている。
なお、頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されていた。
頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる。
末裔
嫡男・大江親広
執権・義時の娘婿として信任厚く、政所別当・武蔵守・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もる。
その子孫は寒河江氏などにつながる。
親広嫡男・大江佐房は承久の乱での戦功により信濃国上田荘を得て、上田氏の祖となった。
次男・長井時広
備後守護となり、兄・親広が承久の乱でその地位を失って以降、大江氏の惣領としてその子・泰秀から評定衆を始め幕府の要職を務める。
広元から五代目の宗秀は寄合衆にもなり、『吾妻鏡』の編纂者の一人と考えられている。
三男・政広(那波宗元)
経歴は不明だが、その子・政茂は延応元年(1239年)に左近将監、仁治2年(1241年)に従五位下に叙爵、その後従五位上に進み、建長6年(1254年)に引付衆となっている。
四男・毛利季光
建保4年(1216年)に16歳で従五位下に叙爵、『吾妻鏡』天福元年(1233年)11月3日条に評定衆とある。
宝治元年(1247年)の宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに頼朝の持仏堂であった法華堂で自害する。
しかし、その四男・経光は越後に居たため巻き込まれず、所領を安堵された。
経光の四男・時親は安芸吉田庄を相続し、安芸・毛利氏の始祖となって、戦国大名たる元就、輝元らに繋がる。
経光の長男・基親は越後国佐橋荘南条を相続し、この系統から越後北条氏が出ている。
五男・海東忠成
嘉禄3年(1227年)に叙爵し従五位下、その後従四位下まで進み、寛元3年(1245年)に評定衆となったが、宝治合戦における兄への加担を問われ辞職。
その他、三河国の酒井氏、因幡国の毛利氏、出雲国の多胡氏など、大江広元を祖とする家は多いが、真偽のほどは不明である。
子孫には「元」や「広」を通字としている家が多い。
西国の覇者・毛利氏
本姓は大江氏。
家紋は一文字に三つ星(一文字三星)。
大江広元の四男で相模国毛利荘を領した鎌倉幕府の御家人・毛利季光を祖とし、子孫は越後国と安芸国に分かれた。
安芸毛利氏は戦国時代に西国の覇者と呼ばれた戦国大名・毛利元就を出して安芸を中心に中国地方(山陽道・山陰道)10カ国を領し、江戸時代には長州藩主として長門国・周防国を領し、明治後は華族の公爵家に列している。
鎌倉幕府政所別当・大江広元の四男で御家人の毛利季光を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利荘(現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。
中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。
季光は宝治元年(1247年)の宝治合戦に際して三浦泰村に与して3人の子息とともに敗死。
しかし、越後国佐橋荘(現在の新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘(現在の広島県安芸高田市)を所領とした季光の四男・毛利経光は、この乱に関与しなかったため、その子孫が越後毛利氏(経光の嫡子・基親の系統)と安芸毛利氏(経光の四男・時親の系統)に分かれて存続した。
安芸毛利氏は、経光から吉田荘を譲与された四男・時親が、南北朝時代の初期に吉田郡山に移住して居城を構えたのに始まる。
吉田荘に移った安芸毛利氏は、室町時代に安芸の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代、毛利元就が出ると一代で大内氏や尼子氏を滅ぼしてその所領を獲得し、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した。
元就の息子たちが養子に入った吉川氏と小早川氏は戦国期に毛利本家の重臣として活躍し「毛利の両川」と呼ばれた。
元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争った。
だが、信長の死後、豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国で112万石を朱印状で安堵された。
輝元はその後、五大老に就任する。
しかし慶長5年(1600年)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国36万9000石に減封された。
慶長9年(1604年)に輝元は長門国阿武郡の萩城に入城した。
以降江戸時代を通じてここを居城とした(ただし幕末に毛利敬親が藩庁を周防国の山口に移している)。
国主(国持ち)の外様大名として雄藩の一つに数えられた。
吉川家の岩国藩は実質的には他の支藩と同様領地の自治が認められていたが、公的には長州藩主毛利家の家臣として扱われていたため、その領地は「岩国領」と称されていた。
江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。
維新後に華族となり、長州藩の毛利宗家は公爵、支藩の毛利家3家は子爵に列し、毛利宗家の分家の毛利五郎家および一門家臣だった右田毛利家と吉敷毛利家が男爵に列した。
また江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家が毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている。
明治期には毛利公爵家は島津公爵家、前田侯爵家に次ぐ富豪華族だった。
権謀術数の天才
毛利元就
毛利元就は、戦国時代の武将・中国地方(山陽道・山陰道)の戦国大名。
毛利氏の第12代当主。
毛利氏の本姓は大江氏。
正式な姓名は、大江元就。
家紋は一文字三星紋。
用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。
権謀術数で奪い取った「毛利の両川」
毛利元就が尼子氏の当主・晴久を破ったのは、天文10年のこと。
元就は尼子氏についた高橋氏、武田氏ら有力豪族を滅ぼして、その所領を強奪。
尼子氏配下の7城を落とす。
これに対して晴久は、数万の兵で元就の吉田郡山城を包囲するが、元就はもうひとつの大国・大内氏の援軍を得て、ついには尼子氏を滅ぼした。
さらに天文13年、三男の隆景に沼田と竹原を本拠とする名族・小早川家を継がせる。
当主・興景の妻が元就の姪だった関係で、興景が病死し「隆景を養子に迎えたい」との声が高まったからと建前上は伝えられているが、これも謀略だ。
天文15年、元就は家督を長子の隆元に譲り、次男の元春が石見国(現・島根県西部)に隣接する地方勢力の吉川家を相続するよう動き始る。
元就の妻・妙玖が吉川家と姻戚関係のため、天文16年、当主・興経を無理やり隠居させ、元春を彼の養子に入れて吉川家を乗っ取ることに成功する。
だが元就の凄味は、その後だ。
彼は隠居した興経が謀叛を起こす事態を想定し、興経とその実子をも殺害。
こうして元就は、安芸国人の雄であった小早川家と吉川家を支配下に置いた。
この両氏が「毛利の両川」として毛利発展の礎となるのである。
元就の天才的な権謀術数は大江の血か?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、あらゆる政略の中心にいる大江広元。
その末裔が、用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られる毛利元就である。
「三枝の矢」の格言で広く知られる毛利元就だが、実は稀代の大策略家であった。
あらゆる権謀術数を張り巡らせ、最後には主家まで滅ぼしている。
また大江広元にも、鎌倉幕府維持のために非情な決断を義時に進言する姿から策略家のイメージが付きまとう。
このふたりが血で繋がっている。
"なるほど" という他ない。
これほど系譜というものを強く感じられる事実も少ない。
才能は隔世遺伝というが、この事実こそまさに大隔世遺伝である。
これだから歴史は面白い。
明治維新は鎌倉幕府から始まっていた?
皆さんご存知の通り、明治維新の中心となったのは薩摩藩と長州藩である。
実はこの二藩。
ルーツは共に鎌倉幕府にある。
薩摩藩を治めた島津氏は、鎌倉幕府の御家人「惟宗忠久(これむねただひさ)」が源頼朝から島津荘の下司職・地頭職に、更にその後守護職に任じられ「島津氏」を名乗り始めたことから始まっている。
また島津氏初代「島津忠久(惟宗忠久)」は、「源頼朝の御落胤」だとする伝説まである。
忠久の母は「丹後局」と呼ばれた女性で、この丹後局と頼朝との間に生まれた子どもが忠久だというものだ。
この伝説は,古くは室町時代の『酒匂安国寺申状』や『山田清栄自記』に既にその記載がある。
そして長州藩の祖は、前述の通り鎌倉幕府の権力確立に尽力した大江広元の子。
言うなれば、鎌倉幕府を設立したふたりの末裔が明治維新を起こし、今の日本を動かしているということになる。
明治維新は今なお続いている。
著者はそう思っている。
旧長州藩である。
この歴史的事実は、庶民が知らない門閥政治天国ニッポンを象徴しているようだ。
歴史を知れば、その国がわかる。
やはり歴史は面白い。
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