其の十六
美しき日本語の世界。
「粋」という美意識
江戸っ子が大事にしていたのは「粋」という美意識。
時代劇や時代小説などでもよく出てくる言葉ですが、実際にはどのような概念だったのでしょうか。
江戸っ子たちが好んだ言葉遊びから垣間見える「粋」とは、いったいどんなものであったのだろうか。
「すい」と「いき」
「すい」とも「いき」とも読める「粋」という言葉。
実際にはどちらが正解なのだろうか。
「いき」——すっきりと洗練された美意識
時代劇や時代小説などでよく出てくる「粋だねえ」という言葉。
これは、ほとんどの人が「いき」という読み方を想像していることと思う。
「いき」とは、身なりがすっきりと洗練されていたり、人情に通じていたりする人や振る舞いを指す言葉で、江戸っ子たちが共通して「格好良い」と感じる美意識である。
「すい」——はんなりとした上方の美意識
これに対して「すい」というのは、上方の美意識のことを表す。
「いき」と同じように「格好いい」という意味を持っているが、こちらは着こなしや身のこなしが優雅ではんなりしている様子を指すという点で、「いき」とは少し異なる美意識を表している。
もともとは、この「すい」だけが存在していたがが、江戸時代になって心意気を表す「意気」に「粋」という文字をあて、「いき」という美意識が生まれたとされている。
会話の中に感じられる「粋」の概念
江戸っ子たちが好んだ「粋」を、もっとも感じることができるのが、江戸時代に流行った言葉遊びである。
「するめ」は縁起が悪い※から「あたりめ」と呼んだことは有名な話だが、ほかにも次のようなものがあった。
※「するめ」の「する」という言葉が、お金を摺る、または舞台興行の失敗を指す縁起の悪い物という忌み言葉で、あえて言い換えて「当たり目」としたという。
「焼き豆腐の心底」
粋な言葉遊びのひとつとして有名なのが、「焼き豆腐の心底」。
いきなり聞くと頭の中に疑問符が浮かぶような謎の言葉だが、どういう意味かをご存知だろうか。
焼き豆腐は、作る過程の中で水の中に沈められたり、火であぶられたりする。
こうしたことから「(焼き豆腐になった気持ちで)たとえ火の中、水の中であっても成し遂げる」という、強い意思を表す洒落言葉なのである。
「足袋屋の看板」
同じような洒落言葉に「足袋屋の看板」というものがある。
江戸の街で見かける足袋屋の看板には、いつも片方の足袋だけが掲げられていたのだとか。
こうしたことから「片方だけ整っている」、つまり「片想い」のことを指す言葉なのだそう。
江戸っ子たちが好んだ洒落言葉は、このようにひとひねりして婉曲的に表現されたものが多い。
一度聞いたたけでは何を意味しているのか分からない表現の裏に隠して、真意を伝えるのが粋だったのである。
江戸っ子たちに嫌われた「野暮」
「粋」の反対言葉として使われ、江戸っ子たちに嫌われていたのが「野暮」。
こちらも時代劇などでよく耳にする言葉だが、どのような概念だったのだろうか。
キッカケは目白で秘仏の開帳をした神社
「野暮」は「やぼったい」のように現代でも使われる言葉だが、その由来となったのは武蔵国にあった谷保天満宮だった。
江戸時代に谷保天満宮は目白で秘仏の開帳をしたことがあったのだが、それが江戸っ子にとっては「無粋」なものに見えたとか。
なぜか?
本来、神様の開帳であれば出雲で行うべきところを、目白なんかで行ってしまったと笑いの種になってしまったのだ。
その逸話は、狂歌師の大田蜀山人が詠んだ「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 谷保の天神」という川柳にも見てとれ、こうした「無粋」な振る舞いは「野暮」なものとして、江戸っ子たちの嫌われるものとなった。
江戸文化の美意識を表す「粋」
「粋」という言葉には、我々日本人の美意識が目一杯詰まっている。
この「粋」という言葉に詰まった曖昧なニュアンスを外国人は理解できないという。
「粋」とは、外国にはあまり無い概念なんだそう。
我々日本人は誰しもが理解している絶妙な美意識。
それが「粋」である。
しかし近年の欧米化の流れの中で、「粋」を感じるものが急速に減っているように感じる。
いや、少しずつだが確実に失われつつある「粋」。
もしかしたら数十年後には、この「粋」という感覚は、もはや日本人なら誰しもが共有する感覚では無くなってしまうのかもしれない。
「粋」の消滅は、日本人のアイデンティティを失うことでもある。
それは非常に哀しいことだ。
江戸っ子に共通する感覚である「粋」を大切にしながら、独自の美意識を作り上げてきた江戸時代の人々。
そんな彼らに学び、時には「粋」なコミュニケーションを実践してみるのもいいかもしれない。
それが日本固有の「粋」な文化を守ることにも繋がるのだと強く信じたい。
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