其の二十一
美しき日本語の世界。
蕎麦は「すする」のか「手繰る」のか?
江戸っ子は粋を食す
江戸の庶民たちの暮らしを描いた落語の中でもお馴染みの蕎麦。
なかでも「時そば」は有名で、夜中に天秤をかついで二八蕎麦を売る屋台が出てきて、「おやじ、いま何時でぇ」と聞き、蕎麦代をなんとかごまかそうとする、何度聞いても笑える噺である。
そんな落語を聞いていたからか、蕎麦には粋な江戸庶民の食べ物だという印象がある。
それだけではない。
著者は落語の粋な表現の中でも、蕎麦を「手繰る」という表現が殊の外好きだ。
いつか格好良く蕎麦を手繰ってみたい。
しかし、粋な食べ物である蕎麦の粋な食べ方は、果たして「すする」のが正しいのか「手繰る」のが正しいのか?
今回は、蕎麦の粋な食べ方について少し掘り下げてみたいと思う。
「すする蕎麦」と「手繰る蕎麦」
茶漬けを「掻き込む」といえば、茶碗を口に付けたまま、箸でザッザッと食べる姿を思い浮かべる。
鮨を口に「放り込む」といえば、いかにも気風のいい、江戸っ子の食べ方を連想する。
林檎は「齧りつく」とも言うし、飯を急ぎ「認める(したためる)」などの古風な言い方もある。
同じ食べる仕草でも、その食物によって言い方は様々だ。
蕎麦は、手繰る、すする、喉ごしで味わうなど、いろいろな言い方をされるが、では「すする蕎麦」と「手繰る蕎麦」は、いったいどう違うのだろう。
蕎麦の食べ方の表現として、「手繰る」と書くのか、あるいは「すする」にするのか。
「蕎麦は噛むもんじゃない。喉ごしで味わうものさ」などと言う人がいるが、噛まずに呑める蕎麦は、細いことが条件となる。
山形などで有名な、鉛筆のように太い蕎麦は、どう頑張っても、噛まずに呑む込むことはできないだろう。
場合によっては、噛んでもなかなか飲み込めなかったりする。
江戸にも伝統の太い蕎麦がある。
「神田まつや」に見られる太打ち。
割り箸ほどの太さがあり、これも噛まないで喉ごしを楽しむというわけにはいかない。
しっかり噛んで味わう蕎麦だ。
こういう蕎麦は、すすることも、手繰ることも容易くない。
ちなみに、「すする」という言葉を広辞苑でひいてみると、「液状のものを口に少しずつ吸い込む」とある。
蕎麦の場合は、いくら細くても固形物なので、「すする」が適切かどうかに疑問が残る。
そして広辞苑にもうひとつ、「すする」の意味として紹介されているのが「鼻汁を吸い込む」という例だ。
食べ方の表現として、どうにもあまり美しくない。
それでも温かい蕎麦を食べる場合は、甘汁とともに蕎麦を吸い込む食べ方もするので、こういう場合は「すする」と表現しても間違いではないのだろう。
一方「手繰る」だが、これも広辞苑でひいてみよう。
意味は「両手を交互に使って手もとへ引き寄せる」とある。
さすがに蕎麦を食べるのに、両手を交互に使って手もとに引き寄せて口に入れる人は、いないだろう。
いや、ひょっとしたらどこかにいるかもしれないので、「いないだろう」ではなく「少ないだろう」と一応訂正しておこうか。
蕎麦を手繰るという言い方は、いかにも粋を気取った江戸っ子が好んで使いそうな雰囲気があって、江戸の大衆食であった蕎麦にはぴったりの言い方だと思う。
その語源を辿ってみると、もともとは江戸時代の大工さんの隠語で、蕎麦のことを下縄(さげなわ)と呼んだことから始まったといわれている。
下縄とは、土蔵の木舞(こまい)に結んで下げた縄で、土壁に塗り込んで壁の強度をあげる目的で使う。
「縄」だから「手繰る」。
ここから「蕎麦を手繰る」という言い方が広まったようだ。
噺家なども好んで、「手繰る」を遣う。
岡本綺堂先生の小説『半七捕物帖』でも、この言葉が遣われている。
しかし温かい蕎麦の甘汁の中に入った蕎麦は、ちょっと手繰りづらいかもしれない。
手繰るのは、やはり冷たい蕎麦に限る。
しかし「手繰る」という言い方は、文字で書く場合には抵抗ないが、自分の口から言葉にするとなると、粋がっているみたいで何とも気恥ずかしさを覚える。
食べ方や味の表現というのは、なかなかに難しい。
しかしながらやはり憧れは残る。
「今日は蕎麦でも手繰りに行こうか」
いつかこんな風に遣いこなしてみたい、美しくも粋な日本語である。
全然関係ないけど、蕎麦屋といえば、蕎麦屋でひとり呑んでる人って格好良く見えるよね。
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