軽々しく「恩返し」とは言えないほどの多大な恩義
秋の夜中にふと考える。
この世に生まれてこれまで、人様から受けてきた恩はいったいどれほどあるだろう。
親から、先生から、先輩から、友人知人から。
人はあまりに多くの他人から恩を享受しながら生きている。
産んでもらった恩。
育ててもらった恩。
数え上げたらキリがない。
感謝してもしきれない。
受けた恩の総量を考えたら軽々しく恩返しなんて言葉は出てこない。
何故ならたとえ一生かかったとしても、とても返しきれるものではないのだから。
その恩人にしたって返してもらうつもりなど毛頭ないのだ。
むしろ簡単に返せると思われているのだから、恩人に対して失礼極まりない。
だから軽々しく恩返しとは言えない。
それこそ野暮というものである。
「恩返し」ではなく「恩送り」という考え方
感謝の気持ちはある。
たとえ足りないとしても、その気持ちを何とかお返ししたいとも思っている。
でも恩人はまったく受け取ってはくれない。
恩人に対して受けた恩を返せないとしたら、いったいどうしたらいいのか。
ずいぶん前のことになるが本気で考えたことがある。
そこで思い出しのが、さらに昔に可愛がってくれた人の言葉だった。
それはこんな言葉だった。
『私がこうしたことで、もしあなたに感謝の気持ちがあるのなら、いつか同じことを誰かにしてあげて下さい。』
そうだった。
この言葉にシビれたことを思い出す。
そこで受けた恩を当人ではなく、他の誰かに返すことを何と呼ぶかを調べてみた。
どうやらそれは恩送りと呼ぶらしい。
なるほど、良い言葉だと思った。
受けた恩を当人に返すのではなく、他の誰かに送っていく。
他の誰かは受けた恩を、また他の誰かに送っていく。
こういう風に世界がまわっていけば、他人を労り、気遣い、慈しみ、気持ちを察することができる素晴らしい世の中になっていくことだろう。
恩という概念の消滅
近頃は恩を仇で返されることも少なくない。
そんな時代なのだろうが実に哀しいことだ。
自分ひとりで何でもできると勘違いしている奴がこれほど多いとは。
みんな自分のことしか考えていない。
どこを切り取っても自分自分自分自分自分自分。
まるで金太郎飴のようだ。
そこにカリスマ性でもあれば話は別だが、そんな高尚な属性などあるわけがない。
ほとんどがただのわがまま、自己中心的な考え方にすぎない。
大の大人がガキみたいな理屈を、至極当然のような顔をして主張してくる。
つまらない奴が多すぎる。
だからすべての人に感謝する必要はない。
つまらない相手には出会えた感謝すらない。
だが、周りをよーく見渡してみよう。
どん底まで堕ちたとしても、手を差し伸べてくれる人は誰にでも必ずいるものだ。
そんな人はいつもさり気なく助けてくれているはずだ。
見落としてはいないだろうか。
そういう人はだいたい皆格好いい。
ファッションやスタイルのみならず、立居振る舞いや生き様が格好いい。
もし思い当たる人がいるのなら、その人の真似をあなたの大切な誰かにしてみよう。
それが恩送りというものだ。
上から受けた恩はちゃんと下へ送ろう。
何よりそうこうしているうちにいつの間にか。自分自身もその恩人のように格好いい人間になっているはずだ。
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