其の三
美しき日本語の世界。
比類なき多彩な表現力を持つ言語
日本語は比類なき多彩な表現力を持つ言語である。
特に英語との比較において日本語の表現力との差は、良くも悪くも歴然である。
英語の明確な表現に対して、日本語は一つひとつの表現が非常に曖昧である。
文法の運用についても、例外使用の多さがあまりにも目立ちすぎて、果たしてこれで文法と言えるのかどうかすら怪しいものだ。
特に省略される言葉の多さには驚くばかり。
会話で何気なく使っている文においては、主語はおろか述語までが省略されていることもあり、対象となる一文だけでは意味すら分からないものもある。
また、日本語の表現の曖昧さに触れた資料もたくさんあるため、先入観として日本語は曖昧な表現しかできないと思い込んでいる人も多いのではないだろうか。
日本語の曖昧さと「察しと思いやり」の文化
日本は「察しと思いやり」の文化圏である。
親密でない他人に注意を促す際も「こうしてくれ」と直接的には言わず、間接的に伝える文化が根付いている。
なぜなら、注意されてはじめて気付く人間は、日本においてはバカと評価されるからである。
そのため、相手をそのバカに該当させないようにするために、「察する」ことができるような間接的表現をしているわけだ。
ところが今の世の中には、鈍い人が多数存在する。
例えば、相手のやり方を直してもらいたい場合に、まったく知らない人に指導するように話を進める場合がある。
指導の体裁をとった改善の要求だ。
つまり間違っている人に指摘するという形をとらず、知らない人に指導する形をとることによって「注意」に該当しないように配慮しているわけである。
この場合、改善要求である事を察し、素直に聞き入れれば問題はない。
だが、中にはその意味を察することができず「知っています」と、やってしまう人がいる。
この「知っています」という言葉は「あなたの話は聞きたくない」という意味と同義である。
この場合、逆にこちらが「察しと思いやり」を求められていると理解すべきだろう。
バカに対して過剰な心遣いだとは思うが、こういう場合は、相手が求めているレベルに到達していないのだと察してあげなくてはならない。
これで人間関係は潤滑にまわる。
このようにすべてがそう出来る人なら、「察しと思いやり」の文化は素晴らしいものである。
だが、残念ながらそれが出来ない人間の増殖に伴い、直接的な表現をせざるを得ない場面が増えた。
日本語の衰退は、「察しと思いやり」文化の衰退を意味するものでもあるのだろう。
現代日本は翻訳本の宝庫
現代の日本は翻訳本の宝庫といわれている。
世界中のあらゆる分野において、日本語に翻訳された本が一番多いらしい。
例えば、韓国やインドの学生は日本語を勉強して日本に来ることを目指す者が多くいる。
そのほとんどの人が、理由として世界の最先端の知識が日本語で手に入ることを挙げている。
彼らの国の最高学府の限られた者しか触れることができない外国の資料が、日本では町場の本屋にごく普通に並んでいるからだ。
彼らの国にも翻訳本はあるが、本当に限られた分野のものしかないのが実情である。
世界の最先端の知識や技術が、定期的にしかも精度を維持して翻訳されているような環境はない。
彼らは世界の知識や技術を比較して学ぶには、アメリカやヨーロッパではなく日本において日本語で学ぶことが一番の早道であることを知っているのである。
奥深い日本語の世界
日本人であっても、専門分野の精度の高い翻訳本に代表される難しい表現に触れることは滅多にない。
そうかと思えば、専門分野をわかりやすく表現してくれている翻訳本も存在する。
これには日本語の対応力の幅の広さを感じざるを得ない。
日本人として日本語話者として生きていても、自分の使いこなしている言葉は、日本語としてほんの一部にしか過ぎないのだろう。
日本語は本当に大きな言語である。
ひと言に日本語といっても、その中身は一人ずつ違うものになっているのではないだろうか。
我々も、伝えること、理解することに対してはもっと慎重になった方がよさそうだ。
自然界の音から音楽や専門的な技術や知識まで、あらゆることを的確に表現できる力を持っている言語なのだから、しっかり勉強してちゃんと遣いこなしていきたいものである。
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