其の三十
美しき日本語の世界。
意外と知らない似ているけれども意味が違う言葉
「事実」と「真実」の違い
「事実」とは、本当にあった事柄、現実に存在する事柄のこと。
一方「真実」とは、嘘偽りのないこと、本当のことを意味する。
意味は似ているが、「事実」はひとつで「真実」は複数あるといわれるように、「事実」と「真実」は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。
例を挙げて考えてみよう。
Aさんはスーパーで50円の赤いリンゴを1個買い、買ったリンゴを家に持ち帰って食べました。
Aさんはそのリンゴを食べて「とても甘かった」と感じました。
この例における「事実」とは、どの部分にあたるだろうか。
この例の場合における「事実」とは、Aさんが50円の赤いリンゴを1個買ってそれを家で食べたということのみ。
Aさんがリンゴを食べて「とても甘かった」という部分は、あくまでもAさんが感じたことであるから「事実」ではない。
何故なら、もしかしたら他の人がそのリンゴを食べたなら「甘かった」ではなく、「とても酸味があった」というような感想になるかもしれないからだ。
このように、「事実」とは変わりようのない事柄であり、その事柄に対してたとえ人が違えど変化したりしないものなのである。
つまり「事実」というのは、1つしか存在しないということになる。
しかし、「歴史的事実」といわれることでも本当にあったこととは限らないように、極端にいってしまえば、多くの人が「事実」と信じているものは「事実」となる。
例えば「豊臣秀頼が豊臣秀吉の子だったというのは事実か?」という問いに対しては、イエスと答えるだろう。
しかし「真実」はとなると、話は別である。
秀頼の、秀吉とは似ても似つかないその風貌は、秀吉の実子説を酷く疑わせる。
このように、「事実」は「実際にあった」と多くの人が認められる事柄、客観的に認められる事柄のことになる。
一方「真実」は人それぞれが考える本当のことで、客観的なものではなく主観的なものである。
「事実」と「真実」の違いについては、菅田将暉氏主演ドラマ『ミステリと言う勿れ』でも端的に語られていた。
「真実は人の数だけある」。
「歳」と「才」の違い
年齢を書く際、あなたは「歳」と「才」のどちらを遣うだろうか?
おそらく、どちらでも書いたことがあると思うし、文書でどちらも見たことがあると思う。
だが、年齢を表す「○○さい」にはれっきとした正確がある。
結論からいってしまうと、「○○さい」を表す正式な言葉は「歳」である。
「歳」とは、もともと「作物の実り」という意味から、「地球が太陽のまわりをひとまわりする時間を(少々のずれを除いて)一年とする時の単位」という意味になった。
そして年齢を表す言葉へと変化していったのである。
「才」も年齢表現に使われてはいるが、「才」には実は年齢や年という意味が全くない。
「才」とは、「才能」という遣われ方をするように「生まれつき備わっている能力。性能。はたらき。」を表す言葉なのである。
ではなぜ、遣われる字が2つもあるのだろう。
それにはまず、「才」が遣われるようになった背景を説明する必要がある。
日常社会において、自分の年齢を書く機会というのは非常に多い。
大人はもちろん、子供でも書く機会が多い。
もちろん自分の年齢を書くには「歳」の漢字を遣うが、13画もある文字だけに、大人でも書くのは大変である。
というか、面倒くさい。
しかも、この「歳」という漢字は中学1年で習うようで、小学生のほとんどは書くことができない。
そういった問題から、同じ読み方をするもので画数の少ない「才」の字に白羽の矢が立ったわけである。
つまるところ、代用として公に認められただけということ。
「才」の遣い方は子供のために特別に認められたものなので、「歳」を習った中学生以上の人は、正式な「歳」を遣うべきなのである。
もちろん公的な書類等では、必ず「歳」の文字を遣っていただきたい。
ちなみにテレビなどメディアの字幕では、画数の多い「歳」も画面ではわかりづらいということで「才」の代用が認められている。
もしかしたら「才」は「歳」の略字だと教えられた人もいるかとは思うが、まったくそういうわけではない。
なぜなら「才」という文字には、「時の単位」という意味は全く含まれていないから。
これを機に、年齢を書く際には正式な「歳」を遣うよう心がけてもらえたら幸いだ。
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