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ioritorei’s blog

完全趣味の世界

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ネタバレ注意【映画『ドライブ・マイ・カー』】ただひたすらに深く内省することの大切さを訴えかけている稀代の傑作。

 

 

 

 

映画

ドライブ・マイ・カー インターナショナル版

 

 

『ドライブ・マイ・カー』とは

 

 

『ドライブ・マイ・カー』(英題:Drive My Car)は、濱口竜介監督による2021年8月20日公開の日本映画。

村上春樹先生の同名小説「ドライブ・マイ・カー」の映画化作品。

脚本・脚色は濱口竜介氏と大江崇允氏。

主演は西島秀俊氏。

PG12指定作。

濱口竜介監督の商業映画3作目となる。

妻を若くして亡くした舞台演出家を主人公に、彼が演出する多言語演劇の様子やそこに出演する俳優たち、彼の車を運転するドライバーの女との関わりが描かれている。

原作・映画ともに初代サーブ・900が登場しているが、原作では黄色のコンバーティブルモデルなのに対し、映画では風景に映えるように等の理由で赤色のターボ16の3ドアハッチバックモデルに変更された。

原作「ドライブ・マイ・カー」より主要な登場人物の名前と基本設定を踏襲しているが、同じく村上春樹先生の小説「シェエラザード」「木野」(いずれも短編集『女のいない男たち』所収)の内容や、アントン・チェーホフ戯曲『ワーニャ伯父さん』の台詞を織り交ぜた新しい物語として構成されている。

フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にし、短い会話を通じて物語を発展させる濱口氏の手法がよく現れた作品と評される。

第74回カンヌ国際映画祭では日本映画初となる脚本賞を含む計3部門を受賞したほか、第94回アカデミー賞では作品賞・脚色賞を含む計4部門にノミネートされ国際長編映画賞を受賞。

そのほか世界各国で数多くの映画賞を受賞し、すでに関係者の間では国際的に注目され始めていた濱口氏の評価を、一気に高めることとなった。

 

 

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あらすじ

 

 

家福悠介(かふく・ゆうすけ)は、成功した俳優・舞台演出家で妻の音(おと)も脚本家として多くのテレビドラマを手がけている。

二人には娘がいたが、幼いころ肺炎で亡くし以後は二人だけで暮らしている。

夫婦の間には、長くつづく二人だけの習慣があった。

一つは家福が舞台の台詞を覚えるときの方法で、家福は、相手役の台詞部分だけを音がカセットテープに録音し、それに自分の台詞で答えながら台本を覚えてゆくという手法を好んでいた。

家福は愛車「サーブ900ターボ」を運転するときにこのテープを流し、自分の台詞をそらで繰り返しながら台本を身に染みこませた。

もう一つの習慣は、夫婦のセックスの最中に音が頭に浮かぶ物語を語り、家福がそれを書きとめて音の脚本作りに活かすことだった。

音はこのやり取りを経て脚本家としてデビューし成功した。

この二つの習慣は、子供を失ったあとずっと続いている。

夫婦はこうして心の傷を乗り越え、穏やかで親密な生活を築いていた。

ある時、家福はウラジオストクの国際演劇祭に審査員として招待され空港へ向かう。

ところが、空港に着いたところで航空便欠航のため渡航を1日延期するよう現地の事務局から連絡を受ける。

あえてホテルに泊まるまでもないと家福が家に戻ると、妻の音は、居間のソファで誰かと激しく抱き合っていた。

それを見た家福は物音を立てぬよう、そっと家を出る。

家福はホテルに部屋をとり、ウラジオストクへ着いたように装って音へ連絡し、いつも通り言葉を交わす。

家福はこれまでの夫婦の生活を守ることを優先させた。

音は家福が情事を目撃したことを知らず、家福も自分が知っていることを明かさなかった。

自動車の中で台本を暗記する習慣も、変わらず続いた。

いま家福が取り組んでいるのは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』だった。

家福は自分が運転する自動車の中で、音が抑揚を欠いた声で読み上げる「仕方ないの、生きていくほかないの。…長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」というチェーホフの台詞を聞き続ける。

そしてある日、音が急死する。

それは音から「帰宅したら話したいことがある」と言われた日の夜だった。

家福が家に帰ると音は床に倒れていて、意識を回復しないまま死んでしまった。

最後の別れを交わすこともできなかったー。

 

ー2年後。

『ワーニャ伯父さん』でワーニャを演じて名声を得た家福は舞台演出家となり、広島で行われる国際演劇祭へ招聘を受ける。

この演劇祭では、家福が広島に長期滞在して演出を務め、各国からオーディションで選ばれた俳優がそれぞれの役を自国語で演じながら、『ワーニャ伯父さん』を上演することになっていた。

自分で車を運転して広島へ到着した家福は事務局から事故のトラブルを避けるため、宿舎と仕事場の車での移動には専属のドライバーをつけさせてほしいという申し出を受ける。

扱いにくいマニュアル車だと家福は断ろうとするが、やってきたドライバーの渡利みさきは有能で車の扱いに長け、無口で何も詮索しようとしないことに家福は好感を抱く。

こうして、みさきの運転するサーブで家福が劇場へ通い、車内で『ワーニャ伯父さん』のカセットテープが流される日々が始まる。

オーディションには日本のほか、台湾・フィリピンまで各国から俳優が集まった。

全員が自国語で台詞をしゃべり、俳優は数か国語がとびかう舞台の上で、台詞ではなく相手役の感情や動作だけをみて反応してゆかねばならない。

『ワーニャ伯父さん』で重要な役割を果たす「ソーニャ」は韓国から参加したイ・ユナで、耳はきこえるが台詞は手話を使う俳優だった。

ワーニャ役に、家福は高槻耕史を選出した。

高槻は、音が脚本を書いた作品にも出演していた若い俳優で、家福はあのとき目撃した妻の情事の相手が高槻ではないかと疑っていた。

高槻は将来を嘱望されながら、衝動的な行動を抑えきれない性格が災いして東京での仕事を失っていた。

過去に音に連れられて家福の出演した『ゴドーを待ちながら』を観劇し、深い感銘を受けていた高槻は、オーディションの告知を見て即座に応募したのだという。

家福は高槻への感情を押し殺し、多国語での稽古が始まる。

俳優たちは風変わりな演出と、台本を棒読みで読み上げさせるだけの稽古にとまどいながら、しかし次第にお互いの感覚が鋭敏さを増してゆくのを感じる。

俳優たちの間で何かが起き始める。

渡利みさきが運転する「サーブ900ターボ」で、家福は宿舎と劇場を往復する。

走る車の中で、音が吹き込んだチェーホフの台詞「真実はそれがどんなものでもそれほど恐ろしくない。いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること…」が響きつづけるー。

 

ー車での移動が続くうち、はじめのうちいっさい口を開かなかったみさきが、少しずつ家福にこれまでの人生を語り始める。

みさきは「上十二滝村」という北海道の小さな集落で、母親一人に育てられていた。

水商売をしていた母親は、まだ中学生のみさきに車を運転させて仕事場へ通った。

車の運転がまずいと、母親は容赦なくみさきに手をあげ、それが理由でみさきは丁寧な運転を覚えるようになった。

しかし、あるとき大雨で地滑りが起き、自宅が土砂に呑み込まれる事故で母親は亡くなった。

一人になったみさきは何ひとつあてがないまま、無事だった車で家を離れ、ひたすら西をめざした。

たまたま車が故障した広島で、そのまま新しい生活を始めたという。

そしてワーニャを演じる高槻も、家福に近づきはじめる。

ひそかに妻と寝ていたかもしれない相手に、家福は夫婦の秘密を明かす。

妻の音には、別に男がいた。

音との日々の暮らしは、とても満ち足りたものだと自分は思っていた。

しかし妻は自然に夫を愛しながら、夫を裏切っていた。

夫婦は誰よりも深くつながっていたが、妻の中には夫が覗き込むことのできない黒い渦があった。

かつてワーニャ役で名声を得ながら俳優としてのキャリアを中断したのは、チェーホフの戯曲が要求する「自分を差し出すこと」に耐えられなくなったからだ。

家福は、そう高槻に話す。

この告白をきいて、高槻も音から聞いたという物語を語り始める。

それは、音が家福とのセックスのさなかに語った物語の続きだったが、家福が知っていたよりも陰惨で不思議な内容だった。

恐ろしいことが起きたのに、しかもそれは自分の罪であるのに、世界は穏やかで何も変わっていないように見える。

でもこの世界は禍々しい何かへと、確実に変わってしまった。

高槻は音からきいたそのような物語を、みさきの運転する車の中で、家福へ向かって語り続けるー。

 

ー演劇祭は準備期間を終え、ようやく劇場での最終稽古が始まる。

しかしある事件が起き、高槻が上演直前になって舞台を去る。

事務局は家福に、このまますべてを中止するか、家福が高槻のワーニャ役を引き継いで上演を続けるかの選択を迫る。

猶予は二日間しかない。

大きな衝撃を受ける家福。

どこか落ち着いて考えられるところを走らせようと提案するみさきに、家福は、君の育った場所を見せてほしいと伝える。

そして渡利は休みなく車を走らせ、二人の乗った赤の「サーブ900ターボ」は北海道へ向かう。

その車内で、家福とみさきは、これまでお互いに語らなかった大きな秘密をついに明かす。

そしてかつてみさきが住んでいた生家の跡地に着き、静まりかえる雪原の中に立ったとき、家福は妻から大きな傷を受けたというこれまで自分が目をそむけてきた事実、そして自分が妻に抱いていた感情の真の意味にはじめて直面する。

 

 


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国内外の批評家から絶賛

 

 

本作は国内外の批評家から絶賛された。

批評集計サイトMetacriticによると、主要メディア42件の批評の内、"Positive" が100%、平均評価は91点となり、2021年公開の映画で最も評価の高い10作の一つとなった。

アメリカの「ローリング・ストーン」誌が2021年の年間ベスト・ムービー第1位に選出したほか「ニューヨーク・タイムズ」紙や「TIME」誌が「2021年のベスト映画10本」の一つに選出した。

また「バラエティ」や「ザ・ニューヨーカー」など主要誌の著名批評家も「2021年最高の成果」の一つとして推薦した。

 

 

 

"演じる" ことを深く考えさせられる秀逸なキャスティング

 

 

濱口氏が執筆したプロットをもとにキャスティングが行われ、家福悠介役に西島秀俊氏、渡利みさき役に三浦透子さん、家福音役に霧島れいかさん、高槻役に岡田将生氏がキャスティングされた。

三浦さんは濱口氏の前作「偶然と想像」のオーディションへの参加を経て、濱口氏自らからオファーが成されたそうである。

その他の劇中の多言語劇に参加するキャストはオーディションによってキャスティングが行われている。

濱口氏はキャスティングされた俳優を「拠り所」にして具体的なキャラクターをつくり上げ脚本を執筆した。

誤解を恐れず率直な気持ちをいえば、本作のキャスティングは恐ろしく地味である。

唯一華のある役者さんといえば、高槻耕史役を演じた岡田将生氏くらいだろうか。

また、全編全役者さんを通してパッと明るい表情をみせる機会が本当に少ない。

だからこそ、演技の善し悪しがあからさまに反映されてしまう作品だったように思う。

演技に関していえば、特に引き込まれたのは渡利みさき役を演じた三浦透子さんの名演。

無感情・無表情のようにみえて、他人の嘘を敏感に感じ取れる繊細さも併せ持つ渡利みさき。

「あぁ、こういう人いるなぁ」と素直に思えるその演技は、ナチュラルそのものだった。

また脇役のキャスティングも、なかなかどうして一筋縄ではいかない素晴らしい曲者揃い。

なかでも著者が目を離せなかったのは、コン・ユンス役を演じたジン・デヨン氏。

優しさに満ちたその演技は、他の役者さんが寡黙な演技を魅せる本作における一服の清涼剤であった。

 

 

 

2時間58分がまったく苦にならない

ただひたすらに深く内省することの大切さを訴えかけている稀代の傑作

 

 

評論家と一般視聴者の意見が、これほど合致した作品はそうそうお目にかかれないだろう。

それほどの傑作だと断言していい。

とはいえ、本作がどういった作品なのか?

作者が本作を通じて、いったい何を伝えたかったのかを言語化することは非常に難しい。

感じ方はもちろん十人十色だし、見方によってはただの物語として終わるだろう。

だから最終的にはご自分の目で確かめてもらうしかないのだけれど、著者には本作を視聴して感じた、あるひとつのキーワードがある。

それはタイトルにも既出している "演じる" ということ。

"演技" と言い換えてもいい。

本作の主人公・家福悠介は、成功した俳優・舞台演出家で妻の音(おと)も脚本家として多くのテレビドラマを手がけている。

そのこともあって、本作の根底には基本的に "演技" がある。

ただ、本作の素晴らしさはそれだけにとどまらせなかったことだと思う。

家福悠介と妻の音(おと)は、他人も羨むおしどり夫婦でありながら、同時にそれぞれが秘密も抱えていた。

この秘密が著者には、悠介は見て見ぬふりをすることで普段と変わらない自分を演じ、妻の音(おと)はありのままの自分でいたように感じられた。

このことの受け取り方こそ、本作の肝だったように思う。

悠介は演じることで日常を保とうとする。

それが、自身の心を押し殺すことになったとしても。

しかし妻の音(おと)は、おそらくだけどありのままの自分を悠介に受け入れて欲しかった。

言い換えれば、音は演じていなかった。

妻の音(おと)の言動を鑑みると、たとえ浮気していようが悠介への愛情に嘘偽りはない。

それは、どうしようもない生まれつきの性(さが)だったのだろうと著者は思う。

 

そこで考える。

"自分らしさ" とは何か?

"演じる" ことが正しかったのか?

はたまた、"ありのまま" でいることが正しかったのか?

後に悠介はこの出来事についてこのような趣旨のセリフを残している。

「正しく傷つくべきだった」

このセリフを以て、著者は本作が傑作であることを確信する。

このような後悔は、ただひたすらに深く内省した人間にしかなし得ない。

とどのつまり、本作はただひたすらに深く内省することの大切さを訴えかけているのだと直感した。

そう感じることが出来たなら、すべての描写がひと繋ぎになっていることに気づく。

 

例えば、本作のもうひとりのキーマンである渡利みさき。

彼女が心の奥底に沈めた感情を露わにしたのは、物語も最終盤、本当に最後の最後しかなかった。

それはかつてみさきが住んでいた生家の跡地に着き、静まりかえる雪原の中に立ったときの束の間。

過去と向き合い、深く内省した時であった。

その逆で高槻耕史は、演じることが出来ない人物だった。

自身の激情を抑えきれず、自らあちこちでトラブルを招いてしまう彼だが、舞台で "演じる" ことの難しさに悩んでいたことは印象深い。

悠介とは実に対照的で、だからこそ悠介の妻としての音(おと)にも抵抗なく、強く惹かれていられたのだろう。

 

大きく分けて人は、悠介やみさきのように'"演じる" ことで心の平穏を保とうとするタイプと、音(おと)や高槻のように "ありのまま" の自分のいようとするタイプのふたつがあるように思う。

しかしそのどちらも他人から見た自分自身の演出法でしかない。

そもそも、"自分らしさ" とは他人からの評価であることがほとんどである。

それは表層的な "自分らしさ" に過ぎない。

本当の "自分らしさ" に気づくためには、もっともっと深く深く己と向き合う必要があるのだ。

そうして本当の "自分らしさ" に気づけたなら、潔くそれを受け入れる。

そうすることが、人間にとっての本当の幸福なのである…というのが、著者が本作を視聴した感想。

 

ちなみに、そこは村上春樹大先生原作の作品。

こんなに捻くれた見方なんてしなくても、本作は十分面白いのでご安心を。

上映時間が2時間58分と、近年の映画の中ではかなりの長尺であるが、その長さを感じさせない展開の妙が本作にはあった。

実際、苦もなく完走できたことは本作が如何に優れているかを如実に物語る。

論より証拠。

本作が何を訴えかけているのかは、是非その目で確かめていただきたい。

個人的には、悠介に感情移入しすぎてしまったせいか、妻の音(おと)への想いが痛いほど伝わってきて胸が少々苦しく感じた。

こういう表現が酷く前時代的なのは重々理解しているが、敢えて申せば、それは永遠の処女性を愛する女性に求めてしまう自分が心底にいるからなのだろう。

それは誰にも渡したくないという、自分勝手な独占欲なのかもしれない。

結論、誰だって誰にも覗き込むことのできない黒い渦を抱えているのだろう。

要は、それを認めることが出来るかどうかだ。

 

 

 

 

 

 

 

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