其の四十七
美しき日本語の世界。
「無言の帰宅」「旅立つ」「眠りにつく」「お隠れになる」
「無言の帰宅」とは
「無言〜」は、例えば「無言の帰宅」「無言の帰国」という言い方で、亡くなったことを(遠回しに)表現している。
遠隔地や外国に行っていた人が現地で事件・事故や病気で亡くなったり、戦場へ赴いた兵士が戦死したりして、遺骨・遺体で祖国や自宅に帰ってきたときに遣われる。
「無言の〜」という言葉が「遺体になって自分の家に帰ること」という意味で遣われ始めたのは昭和10年代ぐらいのことらしく、戦時中の新聞紙面をみると「無言の凱旋」「声なき凱旋」といった表現が度々出てくる。
日本の報道では特に死を直接的に伝えることを避ける傾向があり、「帰らぬ人となった」「静かに眠りについた」などと同様に、遺族や視聴者への配慮を込めた表現として現代も遣われている。
言葉を知らない方が悪いのか?知らない言葉を遣う方が悪いのか?
2025年9月にSNSで「行方不明だった夫が無言の帰宅となりました」という投稿に対して、多くの人が 「良かったですね!」「これだけ心配かけて無言とか頭大丈夫?」「まず謝罪だろうが!」とコメントが相次いだことが話題になる。


「無言の〜」の表現は報道でよく使われる重要な慣用表現だが、現代では意味を知らない人が増えているという世代間のギャップを示す例でもあった。
はたして言葉を知らない方が悪いのか?
それとも知らない言葉を遣う方が悪いのか?
事の発端となった「無言の帰宅」は、「死」をそれとなく遠回しに表現した言葉である。
「死」の婉曲表現としては、他にも「旅立つ」「眠りにつく」「お隠れになる」などがある。
これらは察しと思いやりの文化で醸成された、実に日本語らしい奥ゆかしい表現である。
ただ、それがあまりに間接的すぎるが故にこうした事態を招いた、という指摘もある。
曖昧な表現を善しとした日本語の欠点なのだと。
しかし「無言の〜」のような「死」の曖昧な表現は、はたして日本語にだけにみられる特徴なのだろうか。
調べてみるとそうではなかった。
実は世界中のあらゆる言語にだって、「死」の婉曲表現は存在するのだ。
英語には「kick the bucket(バケツを蹴る)」や「bite the dust(埃を噛む)」のようなイディオム(慣用句)表現がある。
ドイツ語では、「草を噛む」「私たちを去った」「舞台を去った」「私たちから去った」「最後の旅に出る」「創造主と会う」「最後の時を迎える」「時間に祝福される」など、様々な言い方で「死」が表現されているらしい。
なかにはちょっと変わった表現もあって、「スプーンを置く」「永遠の狩場に入る」なども「死」の婉曲表現だという。
また他言語でも「下から花を匂う」「カレンダーを蹴る」「埃になる」「アブラハムの膝元へ行く」「アブラハムにビールを飲みに行く」「蹄を伸ばす」など、世界各国「死」を婉曲表現した言葉は尽きない。
このように、調べてみれば曖昧な表現を善しとするのは、何も日本語だけに限ったことではないことがよくわかる。
言葉は文化である。
日本人には理解しづらい表現も多々あるが、それを知ろうとすることが、ひいては相手を知ることに繋がる。
知識不足そのものは恥ではない。
が、自らの知識不足を認められないことこそが恥なのではないだろうか。
知らなかったこととはいえ、間違えたのは自分なのにそれを認めることなく逆ギレしてくる恥知らず。
厚顔無恥と呼ばれる人の特徴だ。
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