北野武監督映画
首
※本稿にはネタバレを含みます。ご注意下さい。
バイオレンス過多にBL展開の時代劇…「世界のキタノ」の世界観では歴史好きは満足しない
『首』とは
原作者・北野武氏自身による脚本・編集・監督・主演のもと、原作小説出版社・KADOKAWAにより製作。
2023年11月23日に公開された。
R15+指定。
総製作費15億円。
北野武氏が構想に30年を費やして監督・脚本を手がけ、「本能寺の変」を題材に壮大なスケールで活写した戦国スペクタクル映画。
武将や忍、芸人、農民らさまざまな人物の野望と策略が入り乱れる様を、バイオレンスと笑いを散りばめながら描き出す。
北野監督がビートたけし名義で羽柴秀吉役を自ら務め、明智光秀を西島秀俊氏、織田信長を加瀬亮氏、黒田官兵衛を浅野忠信氏、羽柴秀長を大森南朋氏、秀吉に憧れる農民・難波茂助を中村獅童氏が演じる。
北野氏にとっては6年ぶりの新作映画で、2023年5月16日開幕の第76回カンヌ国際映画祭の「カンヌ・プレミア部門」に日本人監督として初めて出品された。
あらすじ
天下統一を掲げる織田信長は、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社勢力と激しい戦いを繰り広げていたが、その最中、信長の家臣・荒木村重が反乱を起こし姿を消す。
信長は羽柴秀吉、明智光秀ら家臣を一堂に集め、自身の跡目相続を餌に村重の捜索を命じる。
秀吉の弟・秀長、軍司・黒田官兵衛の策で捕らえられた村重は光秀に引き渡されるが、光秀はなぜか村重を殺さず匿う。
村重の行方が分からず苛立つ信長は、思いもよらない方向へ疑いの目を向け始める。
だが、それはすべて仕組まれた罠だった。
果たして黒幕は誰なのか?
権力争いの行方は?
史実を根底から覆す波乱の展開が、 "本能寺の変" に向かって動き出す―
歴史にBL要素を持ち込んだ北野監督
北野監督は本作で、日本史上最大のミステリー「本能寺の変」のトリガーとして衆道に着目した。
家臣の荒木村重と明智光秀に対して特別な想いを抱いていた信長が、村重と光秀が知られざる禁断の関係にあることを察知して嫉妬。
光秀と村重に必要以上に暴力を振るったことから、村重が信長に反旗を翻したのではないか?
謀反を起こした村重は自ら戦場を離れたのではなく、何者かの手によって捕らえられ、光秀が匿うことになったのではないか?という監督自身が信じる説を『首』のベースにしていった。
そこから、あの「本能寺の変」(天正10年/1582年6月21日)へと突き進む、信長と光秀、村重の運命をめぐる壮絶な愛憎劇へと着地させたのだ。
歴史にBL要素を持ち込んだ北野監督の着眼点は、あながち間違えではない。
なぜなら、日本には現代でいうBL文化が古来より根付いていた。
事実戦国武将に男色家(衆道※1)が多かったことは、たとえ歴史に疎かろうと知っている人も多いかと思う。
では、戦国武将になぜ男色家が多かったのか。
戦国時代、「陣触(じんぶれ)」として兵の招集がかかれば、まず行うのは身を清めること。
衣類は白衣を着て、魚や肉類も食さない。
酒は飲まず、水や湯で沐浴をする。
こうして出陣の3日前から、心身ともに清める。
殊の外、女性に関しては禁止事項が多くあった。
女性に近づくと身が汚れるとして、妻妾(さいしょう)との同衾(どうきん)はタブー。
つまり性的交渉はおろか、添い寝することさえも許されなかったのである。
ただ、豊臣秀吉が後に朝鮮出兵に際して、側室の淀殿を名護屋城まで呼んでいることからも、時代と共にタブーも少しずつ緩和されていったと考えられる。
だからといって、すべての武将がタブーを軽んじられるわけではない。
故に、このタブーを犯してまでという豪傑な武将は少なかったに違いない。
そのため、小姓などの少年が女性の代わりとして活躍する。
身の回りの世話も含めて、寵愛を受ける対象にもなるのだ。
この時代に男色が殊の外珍しくなかったのも、このような背景も少なからず影響しているといえよう。
※衆道(しゅどう)とは
衆道とは日本における女人禁制又は極めて女人禁制に近い環境で発生した、身分や立場の差がある男性同士の男色をいう。
「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう / にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。
平安時代に女人禁制の場にいることの多い僧侶や公家の間で「主従関係」や「売買関係」を利用した性欲処理目的の男色が、中世室町時代以降に戦地・寝所での護衛など女性が周囲にいない環境にいた一部の武士の間で部下・小姓に対してもされるようになった。
武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える「お小姓」として連れて行った部下に手を出したことなどが始まりだとされる。
戦地では女性はいないため、その代わりに美少年の小姓を性欲発散の相手とする者がいた。
逆に男色を好む上司・主君への「出世の手段」にも利用する者もいた。
「信長=男色家」に根拠なし…森乱丸や前田利家を寵愛したという通説は後世の勝手な創作だった
北野監督は本作の根幹にBL展開を据えている。
その軸となる人物が明智光秀と荒木村重で、二人の関係に織田信長が嫉妬したことが本能寺の変の遠因として描かれている。
そう発想してしまった根拠はわからなくもない。
たしかに織田信長はスキャンダルが極めて少ない武将だ。
有名な戦国大名であればあるほどに、その女性関係は後世に知られているもの。
例えば、武田信玄は何人もの女性と関係を持っていたし、豊臣秀吉は宣教師フロイスも呆れ果てるほどの女好きだったといわれている。
このように有力大名であればどんな家の娘を傍に置いたかはある程度わかっているのだが、戦国大名として最も有名な織田信長の女性関係については、実はほとんど知られていないのだ。
では、だから信長は男色家だったと結論付けるのはあまりにも早計である。
信長=男色家のイメージは、森乱丸※2の存在が大きく影響していることは、歴史に詳しい詳しくないに関わらず周知の事実であろう。
乱丸は信長から寵愛され、小姓として近侍し、禁断の関係にあったかのように語られてきた。
しかし『信長公記』をはじめ、後世に成って成立した二次史料にも、そういう事実は書かれていない。
つまり、疑わしいということになろう。
江戸時代後期に成立した『真書太閤記』には、乱丸について「生年十八歳、色白くて長高し」と書かれてあり、この記述が元になって美少年というイメージが定着した可能性がある。
それでもって、信長との関係が作り上げられたのではないかと思われる。
信長は男色を好み、前田利家と関係があったと言う人もいるが、こちらも事実無根であって根拠となる史料はない。
前述した通り、当時世間で男色があったことは事実であるが、少なくとも信長については確かな記録により裏付けられないのである。
なお、補足情報として織田信長は子沢山でも知られいて、少なくとも息子12人と娘12人がいたといれている。
つまり本作の根幹たる「信長=男色家」には、根拠もなければ説得力もないということになる。
※2.森乱丸
軍記物語などには「蘭丸」と記されており、長らく踏襲されてきたが実際は「乱」、「乱法師」と表記されているので、「乱丸」とされている(なお、「乱丸」と書かれた史料はない)。
『寛政重修諸家譜』によると、実名は「長定」と書かれているが、実際は「成利」が正しいと指摘されている。
バイオレンスを重視し過ぎて興醒めさせられた歴史の " if "
歴史をテーマにした作品には歴史の " if " が付きものだ。
確度の高い史料が存在しない歴史の空白部を空想で埋める。
それ自体は悪いことではない。
ただ本作での歴史の " if " は、あまりにバイオレンスを重視し過ぎたせいで台無しにされてしまった。
その最たるものが、伝令に化けた敵兵がスタスタと大将(影武者)に近づきスパッと斬り捨てるシーン。
伝令とは母衣武者と呼び、近代軍でいう伝令将校でその地位は実は相当に高い。
戦国の軍制では「馬乗り」。
足軽はその地位には無縁だし、同じ武士でも「徒士」では母衣武者になれない。
母衣武者は情報を司るだけあって役回りも重要。
戦となれば母衣武者は真っ先に狙われる。
生半可な者には務まらなかったから、然るべき家柄の若衆から選ばれた存在。
また伝令とは、受ける側にとっては主の代理であり、さらに主の親衛隊でもあった。
それら誉とか権威に加え、覚悟も相まったのが母衣という衣装なのである。
だから伝令(母衣武者)は、おいそれと敵兵がなりすませる存在ではないのだ。
それが易々と敵兵に化られ、あろうことか大将(影武者)まで斬られる始末。
影武者が斬られるようにあえて仕向けていたと考えれば辻褄は合うが、わざわざそうする理由も必要性もない。
そもそも不要だと思われるバイオレンスシーンだが、それでもどうしてもそれが必要だと言うのならば、そうなり得るシチュエーションをしっかり考証すべきだ。
戦国時代の戦場で、どうすれば大将(影武者)首を挙げられるのかを、よくよく考え抜くべきだった。
久々に大好きな本格時代劇が観れると期待していたのに、この " if " のせいですっかり興醒めさせられた。
唯一の見どころは加瀬亮のイカれっぷりと中村獅童の野暮ったさ
散々叩き散らしたが、本作にも見どころはある。
それはイカれ狂った織田信長を演じた加瀬亮氏と、秀吉に憧れる農民・難波茂助を演じた中村獅童氏の名演技だ。
本作で描かれた織田信長は、それはそれは大変イカれており、演じられる役者は限られる。
そのあまりのイカれっぷりを好演として好意的に受け入れられればいいが、もし観る者に嫌悪感を植え付けてしまったなら、演じた役者の今後のプロデュースに大きく影響することになる。
それほど役者にとってリスキーな役どころだといえるが、見事に演じ切った加瀬亮氏は株を上げた感がある。
ぶっ飛んだ演技で株を上げた加瀬亮氏とは対照的に、野暮ったい演技で株を上げたのが中村獅童氏。
秀吉に憧れるも馬鹿で下品で無知で無様で、誇りや気概なんて気高い精神なんてものが皆無の農民・難波茂助は、中村獅童氏がこれまで演じてきた誰よりも野暮ったくむさ苦しい。
だが、それが非常に良かった。
普段のイメージそのままの演技をみせる他の俳優陣と、圧倒的に一線を画した二人の演技。
これこそ著者が感じた、本作唯一の見どころである。
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