[序章]
美しき日本語の世界
日本語が持つ独自性
普段から何気なく遣っている日本語。
基本的に日本語しか話さない日本人にとってはあまりに身近すぎて気づかないが、実は他国語と比べてかなり独自性のある言語。
決定的な定説こそないが、言語学上は世界の言語の系統のどこにも当てはまらない孤立した言語とされている。
日本語の具体的な特性を挙げてみよう。
- 世界のどの言語体系にも属さない孤立言語
- 文字のない時代の言葉をそのまま受け継ぐ言語
- 自然の音を「言葉」として受け取る感覚を持つ言語
- 比類なき多彩な表現力を持つ言語
- 世界の最先端文明を取り込んだ言語
- 使いこなすことが世界でも最も難しい言語のひとつ
これほどの独自性を持つ原因となったのは、やはり日本が大陸とは切り離された島国だからである。
一般的に言語の成り立ちは、文明の侵略や導入によって一緒に入ってくることがほとんど。
その文明の恩恵にあずかるためには、その文明が持っている言語を使わざるを得ないからである。
だが、島国である日本は他国からの侵略をうけることなく独自の文化を育んできた。
そのことが日本語に大変な独自性を持たせた。
英訳不能の日本語
そもそも著者が母国語である日本語に興味を持つキッカケになったのは、中学生時代にまで遡る。
文章を書きたいと思う今があるのも、すべてはこの時が始まりだった。
あれは現国の授業だったか、あるいは英語の授業だったか‥
ある教師がこう言った。
「有名な芭蕉の句。《閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声》は厳密に言うと正確に英訳できないんです。」
これが英訳できない?
なるほど、興味深い。
では、いったいなぜ?
その理由とは、イメージする「蝉の声」が聞く人間によってそれぞれ違うから。
我々日本人には感覚的に伝わる表現だが、これを英文で誰かに伝えようとするなら、「蝉の声」を単数にするか複数にするかでニュアンスがかなり変わる。
主観でなら英訳は可能だが、客観的視点では正解に英訳しきれないというわけだ。
代表的な英訳を例に挙げてみよう。
米国出身の日本文学者・日本学者のドナルド・キーン氏(故人)は、件の句を以下のように訳した。
How still it is here –
Stinging into the stones,
The locusts’ trill.
「閑さ」は「still」、「しみ入る」は「stinging」、「蝉の声」は「the locusts’ trill」と訳されている。
また「still」と「trill」で韻を踏んでいるところはさすがのひと言。
英語の詩としても素晴らしいのではないだろうか。
しかも「trill」は「震えるような鳴き声」との意味で、まさに蝉の声にぴったりの単語だ。
「しみ入る」はオリジナルの日本語でも比喩表現だから、キーン氏も言葉選びに苦心されたと推察できるが、ここでは「岩を突き刺すような」蝉の声と解釈されたようだ。
確かに、たとえば「soak」では「蝉の声に浸された岩」となってしまい、なんだか変な感じがする。
なるほど、おおまかなニュアンスは伝わってくる。
さすがに17字とはいかなかったが、わずか12単語で訳したキーン氏の技量とセンスには脱帽する。
相当の日本通でなければ表現できない秀逸な英訳だろう。
生粋の日本語話者である日本人ですら難しい。
それでもやはりどうしてもキーン氏の主観を感じてしまう。
キーン氏の英訳は秀逸で素晴らしくはあるが、これでは俳句の趣旨から外れてしまっている。
俳句の味わい方とは解釈を読み手に委ねることにある。
わずか17字に情景と心情を表わし、時に色や音、感触、味、匂いや香りまで読み手の脳裏に鮮やかに想起させる俳句は、世界で類を見ない、素晴らしい総合芸術だ。
文字ひとつひとつが音だけでなく意味を持つ日本語でなければ、この短い17字の詩は不可能だろう(漢字が使われる中国語なら可能かもしれないが…)。
後世に伝えたい日本語の有能性と美しさ
俳句が往々にして日本の原風景を詠むことが多いというのも、訳を難しくしている要因のひとつかもしれない。
日本の原風景が心身の細胞レベル、DNAレベルで "インストール" されていないと、本当の本当の本当のところで(deep down)この芭蕉の句を鑑賞(appreciate)して感動する(be moved)ことはなかなかできないのではないだろうか。
この、日本の原風景というのがまたやっかいなシロモノで、どうやっても英語に訳せない言葉ときている。
せいぜい「native landscape in Japan」と言うぐらいだろうか。
かの千利休が提唱した「侘び寂び」なども、永遠に100%訳せない概念であろう。
日本人の筆者でも日本語で簡潔に説明はできないが、侘び=質素・シンプルに見える物事を究極に美しいと思うこと、寂び=時を重ねてこそ滲み出てくる趣や佇まいに良さや美しさを感じること、といったところだろうか。
さあ、これを英語にするとなったら大変だ。
「侘び寂び」は物事から生き方まで多種多様な対象があるから、対象ごとに違った説明をする必要が生じる。
しかし、このようなそこに住む人にしかわからない概念や感覚は、日本語だけにあるわけではないようだ。
ポルトガル語には「saudade(サウダーデ、ブラジル語読みではサウダージ) 」という言葉ある。
ポルノの楽曲として認知度は高い言葉だろう。
この「saudade」。
辞書では郷愁、憧憬、思慕、切なさあるいはノスタルジアといった感情であると説明されている。
おそらく99%ぐらいは合っているのだろうが、最後の1%はポルトガル人にしかわからない、何かもっと違う、もっと深い感情を表わしているのだろうなと推察する。
彼らは口々に「saudadeは他の言語に訳せない」と言う。
最近日本でも注目が高まっているデンマーク語の「hygge(ヒュッゲ)」という言葉も、「幸福」や「心地よさ」という日本語訳では100%表現しきれない、何かもう一段上の「感覚」を意味しているのではないだろうか。
しかし日本語にはたくさんのそこに住む人にしかわからない概念や感覚を含む言葉が、これら以上に存在する。
日本人である我々は、そこに疑問すら持たないだろう。
しかしこれは誇るべきことである。
皆さんにとっては当たり前の感覚だろうが、実はこれって何気に素晴らしいこと。
後世に伝えていきたい、伝えていかなければいけないことである。
これから日本語の魅力をシリーズ化してお伝えしていこうと思うが、本稿をキッカケに日本語の美しさや素晴らしさが少しでも広まってくれることを願う。
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