[其の一]
美しき日本語の世界。
美しさを伝えるための入り口として選んだのは「名字(苗字)」
日本語の美しさをお伝えするにあたり、何処を入り口にしようかと考え、たどり着いたのが名字。
皆さんが生まれた時から当たり前のように名乗っている「名字(苗字)」。
自分に名字があることなんて当たり前のことすぎて改めて考えたこともない方が多いと思うが、自分の名字の由来をご存知の方は、歴史ある名家や旧家出身の方でもない限り少ないと思う。
知っていたとしても、家族の言い伝え程度の情報ではないだろうか。
だが自分が今名乗る名字にも由来があり、それが存外面白いものだったりする。
特に珍名と呼ばれる名字には思わず唸る由来があって、その言葉遊びが日本語の美的センスを存分に醸し出しているのだ。
名字(苗字)には日本語の奥ゆかしさがいっぱい
さて、いきなりだが問題だ。
皆さんは、以下の苗字をいくつ読めるだろう?
どれも珍名としては代表的な名字ばかりだから、ご存知の方も多いだろう。
正確はそれぞれ次の通りである。
- たかなし
- やまなし
- わたぬき
- にのまえ
- いちじく
皆さんはいくつ読めただろう?
どれも当て字にすらなっていないのだから、知らなければ読めないのかもしれない。。
しかしなぜ当て字にすらなっていないのか?
これが重要で、そこにこそ日本語の美しさが隠されている。
どうしてそうなったのか、ひとつずつ意味紐解いてみよう。
そこにはなるほど納得の意味が隠されていた。
小鳥遊 / たかなし
「小鳥が遊ぶ」と書いて「たかなし」と読む。
他の「たかなし」さんとは明らかに文字面が一線を画しているが、いったいなぜこうなったのか?
想像力がある方ならピンときただろう。
「小鳥が遊ぶ」状態というのは、すなわち天敵がいない状態を意味する。
天敵とは鷹のこと。
鷹がおらず小鳥が自由に飛び回れる状態から、小鳥遊を「たかなし」と読むようになった。
月見里 / やまなし
「月見の里」と書いて「やまなし」と読む。
こちらも他の「やまなし」さんとは、文字面が明らかに一線を画している。
またもや想像力がある方ならピンときただろう。
月が見える(昔の)状態というのは、月を遮る山がないことを意味する。
すなわち、「月見里」には山がないことから「やまなし」と読むようになった。
四月一日(四月朔日) / わたぬき
これを正しく読むためには、想像力だけではどうにもならない。
「わたぬき」と読む由来は、かつて冬の間に防寒として着物に詰めた綿を旧暦の四月一日(四月朔日)に抜いていたことに起因する。
ここから、「四月朔日(四月朔日)」と書いて「わたぬき」と読む姓が存在するようになった。
ちなみに「四月朔日」は北海道や富山県に多いが、「四月一日」は稀少名字。
一 / にのまえ
「一」は一字で「にのまえ」と読む。
まるでトンチか大喜利のようなセンスだが、「二」の前の数字であるというシンプルな理由からである。
だが、「一」をイチと読ませないところに日本語の奥ゆかしさを感じる。
九 / いちじく
「九」と書いて「いちじく」と読む。
こちらもトンチか大喜利のようなセンスだが、一字で「九」と読むからそう読まれるようになった。
「一」は「にのまえ」と読ませるのに、「九」を「はちあと」や「とまえ」と読ませないところが非常に興味深い。
いかがだっただろうか。
日本語の "美" を感じはしなかっただろうか?
名字には、優雅さを漂わせる言葉選びのセンスと遊び心が溢れている。
昔の日本人の想像力と語彙力は素晴らしいのひと言だ。
特に「小鳥遊」と「月見里」の読み方の美しさは群を抜いている。
文字自体が持つ意味から、さらに一歩先の世界を想像し、そこから紡ぎ出される語彙力。
音訓の読みの違いでもなければ当て字でもない、まったく別モノへと昇華している。
ただ韻が同じ文字を当てただけではないこのセンスには、ただただ驚かされる。
一体どんな感性を持っていれば思いつくのか…。
このように名字には、美しさはそこかしこに溢れている。
日本語に興味を持つキッカケとして、これ以上身近なものもないだろう。
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