ドラマ(1994年)
人間・失格〜たとえばぼくが死んだら
トラウマの野島伸司演出
今まで観てきたすべての映画・ドラマの中でも、自らすすんでもう一度観たいと思えない唯一の作品。
それが1994年にTBSで放送された野島伸司ドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』である。
とにかくエグい。
観ていて心が苦しくなる。
やはりトラウマになっているのか?
『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』とは
『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』は、1994年7月8日から9月23日までTBS系列の金曜ドラマ枠で放送されたドラマだ。
主演は赤井英和氏。
それまで一般的にはそれほど知られていなかったKinKi Kidsの一般知名度が飛躍的に上がったドラマである。
KinKi Kidsの共演作品として話題や映像が出る事が多いため、彼らが初主演作と言われることがあるが、全編を通しての主演は赤井氏である。
タイトルからしてかなりエグい。
だが、内容はもっとエグいドラマだった。
あまりの過激さに視聴率は低迷
名門私立中学校を舞台にした物語で、イジメ、体罰、虐待、自殺、父親の復讐、親子の絆などを描いた。
大きく分けると、前編(第1話から第6話まで)が名門中学での誠への陰湿、過激なイジメ問題を中心に描写、後編(第7話から最終回まで)からは誠を殺した者達への、衛の復讐劇が中心に描写される。
前編の話にかなり過激なイジメや体罰描写があり、倫理的・道徳的にタブーとされる話題を数多く扱ったことから、「過激で興味本位な内容である」という視聴者からの批判が多かったという。
そのため前半は視聴率で苦戦したが、徐々に視聴率を上げ、最終回は28.9%にも及んだ。
平均視聴率は19.2%。
第6話以降は全話視聴率20%以上を記録していたが、序盤の低迷が響き平均視聴率は20%を割った。
本作をきっかけに堂本剛氏と堂本光一氏の二人は俳優として注目を集めることとなり、その後のブレイクに繋がることになる。
赤井英和氏にとっては、本作が連続ドラマ初主演であったが当たり役となった。
イジメ、体罰、虐待、自殺、父親の復讐、親子の絆を生々しく描いた、日本ドラマ史上、最もコンプライアンス完全アウトな作品のひとつ
『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』には、今のコンプライアンス規制なら完全アウトであろう描写が散見された。
例を挙げてみる。
・机の上に花瓶を置く。
・「両手を縛り上げて全裸にする」といった数多くの壮絶な苛めのシーンが、かなり具体的に描写されている。
・体育教師が生徒に暴行を加えたり、プールの水面に生徒の顔を押し付けて気絶させるといった体罰シーンが数多く描写されている。
・私立の男子校で、男性教師が少年に、少年が少年に恋愛感情を持つという同性愛を想起させる設定。
(※当時の社会通念では問題があったよう。)
・主人公の息子が中盤で自殺してしまう衝撃的な展開。
・その後自殺した中学生の父親が、息子に体罰を加えていた教師や酷く苛めていた生徒らに、復讐を果たしていくという過激な内容。
大人になった今考えても、精神的に不安定な思春期に観るのはどうかと首をかしげるほど、あまりにトラウマ級の描写が多かった。
1980年代前半のドラマにも校内暴力を取り扱った過激な描写が多かったとは思うが、今作品はそれらと比べてもさらに陰湿かつ残酷だったように思う。
リアタイ世代ではないから詳しいことは言えないが、1980年前半のドラマの過激さは、それでも社会全体の問題だったのではないだろうか。
そういう風潮が社会全体に流れていて、それを問題提起しているから観ている誰もが共感、または反論できた。
『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』も、当時問題になっていた陰湿なイジメについて取り上げてはいる。
しかし、それ以外のオプションがあまりに闇すぎた。
体育教師の体罰にしても、当時それは当たり前のように存在していたが、あくまで校則違反した者に対してなどある程度良識の範囲内での出来事だ。
特定の人物へ向けての体罰なんて滅多にない。
だが、現実にまったくなかったとは言い切れないのも事実である。
こういう事実を社会の闇と呼ぶのだろうが、まさにその核心にメスを入れたのが野島伸司作品だった。
あまりに闇すぎて、続きを知りたいけどすすんで観たくはないという矛盾の中で視聴し続けていた記憶がある。
だからさすがに再放送は望まない。
バイオリズムのタイミングが合った時のみ、再び観てみたいと思う。
これほどトラウマ級のドラマを、地上波でも平気で放送できたおおらかな時代があったのだ。
問題作『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』はドラマの外でも問題を抱えていた
イジメ問題
脚本家の野島伸司氏およびプロデューサーの伊藤一尋氏は、本作品が社会派ドラマとなることを避けたと明言している。
イジメ自体はどの時代にもある普遍的な問題であるとした上で、人を死に追いつめる背景描写の一部として、イジメを使用した旨の発言を残している。
一方で放送終了と前後して、男子中学生がイジメの詳細内容を記載した遺書を残して自殺する事件(愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件)が発生。
それに連動してこのドラマも注目を集めた。
タイトル問題
番組開始時は太宰治の小説名と全く同じ『人間失格』をタイトル名としていたが、太宰の遺族から抗議があったことから、第2話放送時より、タイトルを『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』と一部修正した。
ドラマの内容そのものは脚本家の野島伸司のオリジナルストーリーであり、太宰の小説とは全く異なっている。
とはいえ、本作の主人公の姓・大場(おおば)は太宰治の「人間失格」の主人公の姓・大庭(おおば)と同音であり、同作を連想させるものとなっている。
なお、「たとえばぼくが死んだら」も森田童子さんの楽曲のタイトルと全く同じである。
野島氏は『高校教師』でも森田さんの楽曲を主題歌に採用している。
時代はめぐると言われる所以
1994年のドラマ主題歌に起用したのは1960年代に活躍したサイモン&ガーファンクル
今作品の挿入歌として使用されたのがサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道[原題:A Hazy Shade of Winter]」だ。
諸事情があったのか挿入歌とされてはいるが、実質的にはドラマのテーマ曲といえるだろう。
アメリカを代表するフォーク・デュオ、サイモン&ガーファンクルの人気曲である。
サイモン&ガーファンクルの代表曲のひとつで世界的有名曲、名作映画『卒業』で使用された「サウンド・オブ・サイレンス」は、どこかで一度くらい聴いたことがあるのではないだろうか。
なお、エンディングにも同じくサイモン&ガーファンクルの代表曲「明日に架ける橋[原題:Bridge over Troubled Water]」が使用されている。
ちなみにサイモン&ガーファンクルは主に1960年代に活躍した、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルによるフォーク・デュオである。
ここで注目すべきは、1994年のドラマに1960年代の曲を起用したことである。
リアタイでドラマを視聴していた世代は、おそらく1980年代以降に生まれている。
にもかかわらず、あえて1960年代の曲を使用しているのである。
これにはこんな理由が考えられる。
年代から推測するに、これは脚本家の野島伸司氏およびプロデューサーの伊藤一尋氏の青春時代に流行っていた曲であろう。
決定権を持つ大人になって、自分たちが若かりし頃に夢中になって聴いていた曲を起用する。
サイモン&ガーファンクルを知らない世代にとっては新鮮だ。
ドラマのヒットに乗じて、当然主題歌にも注目が集まる。
だから主題歌も、もちろん流行る。
正解には、再び流行るということになるのだが、これが時代はめぐると言われる所以だ。
こうして様々なものが、後の世代へと受け継がれていく。
しかし最近、時代がめぐるという現象が見られなくなったような気がする。
これも時代が変わる兆候なのだろうか。
ちなみに、野島伸司氏はサイモン&ガーファンクル以外にも時代をめぐらせているが、それは別の機会にしよう。
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