今どきの若者ときたら…
遥か古代に壁画にも『近頃の若者ときたら…』という文言が刻まれていたというエピソードは有名だ。
頭の固いオヤジどもなら古代と変わらず『最近の若者は…』などと思うのだろうが、個人的にはそれがどんなものであろうと若者の文化を否定する気はない。
だって自分たちもそうだったんだから。
自分のことを棚に上げて、他人をどうこう言うのはいただけない。
だが、しかしだ。
それが知能の低下や礼儀の欠如に繋がるような影響を与えているなら、問題にする必要があるだろう。
ひとつの問題提起として、本稿を読んで頂けたら有り難い。
改めてYouTubeとは
言わずと知れた、アメリカのオンライン動画共有プラットフォームである。
YouTubeでは、ユーザーが動画をアップロード、閲覧、評価、共有、プレイリストへの追加、レポート、コメント、他のユーザーのチャンネル登録などを行うことができる。
利用可能なコンテンツには、ビデオクリップ、テレビ番組のクリップ、ミュージック・ビデオ、短編映画やドキュメンタリー映画、音声録音、映画予告編、ライブストリーム、ビデオブログ、短編オリジナルビデオ、教育用ビデオなどがある。
ほとんどのコンテンツは個人によって生成され、アップロードされる。
2019年5月現在、YouTubeには毎分500時間以上のコンテンツがアップロードされており、毎日10億時間以上のコンテンツがYouTubeで視聴されているモンスターコンテンツだ。
改めてTikTokとは
中華人民共和国のByteDance社が開発運営しているモバイル端末向けショートビデオプラットフォーム。
米英ではYouTubeの利用時間を上回っている最大動画サイトだ。
アプリでは音楽クリップの視聴のみならず、短い動画クリップの撮影および編集、さらに動画クリップへの特殊効果の追加が可能となっている。
BGMをリストから選択し(BGMリストにはヒップホップやテクノなど多種多様なジャンルの楽曲が収録)、撮影した動画にBGMを組み合わせて編集することで、オリジナルの動画が作成できる(撮影時間は最大3分)。
作成した動画はTikTok上に公開することができ、また動画を端末内に保存することも可能である(簡単な動画編集アプリとしても使える仕様になっている)。
TikTokには様々なトレンドが存在する。
代表的なものとして、ユーザーがあるお題を真似したりアレンジして広がるミーム(meme)動画が挙げられる。
アプリ内の検索ページにはハッシュタグ(#)のトレンドが表示されており、「ハッシュタグチャレンジ」と題された企画が定期的に開催される。
YouTubeやTikTokの見過ぎで懸念される弊害
成長著しい動画サイト。
これらを一切観ないという若者など、もはやいないのではないだろうか。
手軽に様々な動画を楽しめるこれらのコンテンツは、知識の吸収から暇つぶしに至るまであらゆる状況で活用できる。
YouTubeやTikTokを否定する気は元よりない。むしろ著者自身も、貴重な情報源としてありがたがって見ている口だ。
ただ最近の若者の風潮として、これらで視聴する人気の動画は、特に意味のないものになるらしい。
語弊があるのかもしれないが、馬鹿馬鹿しい無意味な動画が人気ということだろうと認識している。
馬鹿馬鹿しい動画、それ自体に問題があるわけではない。
たまには何も考えず、馬鹿になりきってみるのも悪くない。
問題なのは、そういう無意味な動画を見続けることで思考能力が低下するということだ。
視覚でダイレクトに感じる動画は、それが馬鹿馬鹿しいものなら考えることをしなくなる。
直感的に、ただただ楽しいものをダイレクトに感じたら考える必要はなくなる。
おかげで、表現されたものの裏側に隠された制作者の意図みたいなものを、察することができなくなってしまうのだ。
最近の映画やアニメを観ていて昔との違和感を感じるのは、最近の作品はやたら丁寧にいろいろ説明してくれているという点だ。
作品にもよるが、昔の作品は視聴者側に感じ方の余白を残してくれていた。
方向性は示すが直接的な結果は与えてくれないような、善い意味での曖昧さがあった。
語り過ぎはともすると野暮になる。
最近の作品はとにかく要らぬセリフが多い。
注釈が多い。
少し畑違いにはなるが、バラエティー番組の字幕スーパーは必要なのか?
あんなものは野暮も野暮、野暮天だ。
それが作品の質を下げる結果になっている気がするのは著者だけだろうか。
元々読解力に優れていた日本人が、今や行間も読めない。
【察し】を信条としていた日本人が、機微を察することができない。
【行間を読む】とは、文章や演出には直接表現されていない作者の真意を汲みとることを意味する。
それは、前述したYouTubeやTikTokで最近流行っている人気動画の、真逆の行為といえるだろう。
日本人が読解力に優れたのは、特別勉強熱心だったからというわけではない。
漫画文化が発達していたから、という話だ。
子供の頃からあらゆる漫画に触れる機会の多い日本人は、自然と読解力が身につくらしい。
しかし最近の漫画を読んでいると、余計なセリフが多いように感じる。
それを言ったら趣もへったくれもないセリフを、平気で差し込んでくる。
不自然なセリフや説明を入れるから、読んでいてもシナリオがすんなり入ってこない。
頭の片隅に引っかかるものがある。
何故、これほど野暮になってしまったのか?
それもこれも最近の日本人が行間を読めなくなってきているからだろう。
あえて含みを持たせる表現こそ日本人の美学であり、それがあったればこそ【察し】と【思いやり】を可能にしてきた。
そんな尊ぶべき美学も、もはや風前の灯か?
行間の読めない日本人の増加が、日本人の美学をも失う結果にならないことを切に祈る。
あえて言おう。
馬鹿な動画ばかり見ていないで、たまには頭を使え。
自分の頭で考えるんだ。
さもなくば本物の馬鹿になるぞ。
いちいち過剰な説明や余計な注釈はしない
宮崎駿監督作品『紅の豚』は行間を読む作品
過剰な説明も余計な注釈もない作品のひとつに、宮崎駿監督作品『紅の豚』が挙げられる。
地上波で放送されたばかりだからちょうどいい。
宮崎駿監督作品は『紅の豚』を境に、しばらくの間、細かい設定を劇中で描かない作風になる。
特に、主要登場人物たちの関係性及びその後をほとんど描いていない。
①主人公・豚ことマルコと、マダム・ジーナの関係性とその後。
②主人公・豚ことマルコと、フィオのその後。
③そもそも主人公・マルコはどうして豚になったのか?
宮崎駿監督が描いてくれたのは、わずかばかりのヒントだけである。
だが、だからこそ皆がこぞって『紅の豚』を考察する。
マルコは人間に戻れたのか?
ジーナとは、その後どうなったのか?
フィオとは?
物語は最後に、フィオのこのようなナレーションで締め括られる。
「イタリア空軍の出動が空振りに終わって、私がミラノに帰る日が来ても、ポルコは姿を見せてくれなかった。
でもその代わりに、私はジーナさんととてもいい友達になった。
あれから、何度も大きな戦争や動乱があったけれど、その友情は、今も続いている。
ピッコロ社を継いだ後も、夏の休暇を、ホテルアドリアーナで過ごすのは、 私の大切な決まり。
ジーナさんはますますきれいになっていくし、古い馴染みも通って来る。
そうそう、まだ大統領にはなってないけど、ミスターカーチスも、時々手紙をくれる。
あのアドリア海の夏が懐かしいって。
ジーナさんの賭けがどうなったかは、私たちだけのひみつ。」
肝心の主人公・豚こと、マルコのその後に一切触れられていない。
こういうあやふやな結末は、今なら賛否が分かれてしまうのだろうか?
しかし公開当時、そんな批判は耳にしていない。
あるとしたら、あまりに宮崎駿監督の趣味すぎたことくらい。
宮崎駿監督の自己満映画だと揶揄されたことは、たしかにあった。
だがそれくらいの不評しか知らない。
結果的に、『紅の豚』を視聴したほとんどの人が、こんなあやふやな結末でも十分満足したということだろう。
ひと昔前以前の作品なら、過剰な説明も余計な注釈も当たり前のように無かった。
それは制作者が、わざわざ視聴者に解釈の幅を持たせてくれていたからだ。
視聴者は、だからその後をあーだこーだとそれぞれ推察する。
感じ方が自由になるから、人それぞれのエンディングが生まれる。
それぞれが、こうだったらいいなと思うエンディングを思い描く。
だから、過剰な説明も余計な注釈もしないのだ。
「これはこういう意味なんだよ」なんて決めつけられてしまったら、エンディングは一元化してしまう。
そんなものは親切でもなんでもない。
余計なお世話というものだ。
今では過剰な説明や余計な注釈が無ければ、制作者の伝えたいことが少しも伝わらない。
その結果、作品全体が酷く野暮なものになってしまっている気がする。
あえて説明しないから、良いのではないか。
答えを与えられるなんてつまらない。
わずかばかりのヒントから、あれこれ考えるから映画は面白いのではないだろうか。
その楽しみを放棄させる不要な説明や注釈はいらないのである。
久しぶりに『紅の豚』を視聴した。
前述したことがどうでも良くなるくらい、フィオが信じられないくらい可愛いかった。
フィオの器量良しときたら…
こんなご時世だがあえて言おう。
なんてイイ女なんだ♡
こういう女性に促されて男は強くなる。
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