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ioritorei’s blog

完全趣味の世界

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美しき日本語の世界。[其の五十三]【落語とは人間そのもの】

 

其の五十三

美しき日本語の世界。

 

 

落語とは人間そのもの

 

 

 

 

 

 

 

今も生き続ける落語

 

 

いくら堅苦しい文章で説明しても、落語の魅力は伝わらない。

だったら論より証拠。

超高齢社会の現代日本人だからこそクスッと笑えそうな、人間臭たっぷりの小咄をひとつ。

 

「先生、右足が痛いんですが診ていただけますか?」

「はい、レントゲンの結果からは関節炎や神経痛や痛風ではありません。あなたの右足は大丈夫ですよ、おじいさん」

「じゃあ何です、この痛みは?」

「まあ、お歳のせいでしょう」

「先生、いい加減な診断しないでください」

「どうしてです?」

「歳のせいって、左足も同い歳だよ」

 

皮肉に聞こえるかもしれないが、こういう切り返しのできる大人を「粋」だと感じてしまう。

このおじいさんの言っていること、たしかに間違ってはいない。

医者は、たしかに優秀な頭脳と判断力を持っているのだろう。

だが、「常識や科学では割り切れないものが世の中にはあるんだよ」と、このおじいさんは言っている。

これが落語である。

人間なのである。

落語には、人間の常識では割り切れない会話や人生が詰まっている。

時代設定こそ江戸や明治や昭和初期だが、だから古い話だろうと思ったら、とんでもない。

もし今、あなたが思い悩んでいることがあるとすれば、落語の中にそっくりのパターンのものがあるはずだ。

人間、割り切れれば悩まない。

割り切れないから悩みなのだ。

そういう状況下にあっても、落語の登場人物たちは見事に生き生きと乗り切る。

それを見て(聴いて)いる我々は、思わず笑ってしまう。

そしてふと、「そうか、今の状況はこういうことだったのか」ということに気づく。

人間に、江戸も明治もない。

それどころか、落語を聴けば、昔の人たちの方がよほど豊かに生きていたなあ、と思うに違いない。

だから今も落語は生き続けているのである。

 

 

 

いつの時代になっても変わらない人間の心の持ち方

 

 

『火焔太鼓』という噺がある。

五代目・志ん生師匠が得意とした噺だが、物語は至って単純。

いつも儲からない商売ばかりしている古道具屋の旦那と、その旦那をお釈迦様の手のひらのように包んでいる女将さんが主人公。

ある日珍しい太鼓を仕入れた旦那は、得意になって「これで大儲けができる」と自慢する。

だが、旦那が夢見るタイプであればあるほど、現実主義にならざるを得ない女将さん。

そこへ太鼓の音を聞いた武士が店に入ってきてーーーと、噺は展開する。

 

 


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ここで大事なのは、時代や風俗ではない。

いつの時代になっても変わらない、人間の心の持ち方なのである。

『火焔太鼓』も、ひょんなことから商売は上手くいき、女将さんが旦那を見直す。

この心と心のふれあい、人情の機微が、時代を超えて我々の心を打つ。

我々現代人も、本当はそれを望んでいるのではないだろうか。

落語の誕生は豊臣秀吉の時代にまで遡る。

噺家が登場したのは、江戸の元禄頃というのが定説である。

だから、落語の有名な噺のほとんどが古典落語に分類される。

近年の社会の変化は目まぐるしく、数年で街の表情がガラッと変わってしまう。

その中で「侘び」とか「寂び」といった俳句にも繋がる噺や、江戸や明治の町の様子を想像することは難しい時代なのかもしれない。

よく、テレビで深夜に放送される昔の映画。

それがたった2〜30年前の映画でも、我々は「古い」と感じてしまう。

だが、20年前に録画(録音)された噺家の口演は、不思議と少しも古いと感じない。

これが落語の素晴らしさであり、話芸としての凄さだと思う。

時代背景がよくわからなくても何となく惹き込まれていったことが、きっとあなたにもあるはずだ。

 

 

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今すぐ誰かに話したくなる知的雑学【知識の泉】「ドリンクはmlなのにコーヒーはg表記の謎」

 

知識の泉

今すぐ誰かに話したくなる知的雑学

 

 

ドリンクはmlなのにコーヒーはg表記の謎

 

 

 

 

 

 

 

知識は力なり

 

 

かの有名なイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは言った。

「知識は力なり」と。

この言葉には、読んで字の如く「知識は自身の力になる」という意味とは別に、「経験によって得た知識を、いかにして実践的に使用することができるのか」という意味も込められている。

雑学も同様だと思う。

実際には、生きていく上で何の役にも立たないと思われている、どうでもいい情報群。

それが雑学という分野といえるだろう。

しかし雑学で得た知識を、どのように使うのかは人それぞれ。

普段の話のネタに困っている人。

トーク力を上げたい人。

飲み会やデートなどで知識を披露したい人。

知識を吸収したいけどあれこれ調べるのが面倒な人。

そして、物事の本質や奥深さを知りたい人。

純粋に「なるほど!」と思いたい人まで。

当たり前に感じていたことも、角度を変えた視野からみることで、別の面があることに初めて気付かされる。

その知識を他人にひけらかすだけでなく、その知識をもとに、固定観念から解放され、世の中の見え方を変えようではないか。

さすれば、「知識は力なり」の言葉の意味を実感できるはずである。

 

 

 

ラベルを見ると185g?

 

 

一般的な缶ジュースや缶ビールの容量は350ml。

ラベルの内容量にも、しっかりと350mlと記載されている。

一方で、缶コーヒーの一般的な容量は185ml(少し前までは190gだったのに)なのだが、ラベルを見てみると185gと記載されている。

なぜコーヒーは、ミリリットル(ml)ではなくグラム(g)表記なのだろうか。

まずは缶コーヒーが出来上がるまでの工程を想像してみよう。

コーヒーは焙煎されたコーヒー豆を粉末状にして、熱湯を注ぎ、好みに合わせて砂糖やミルクなどで味を調え、完成する。

つまり、缶コーヒーが完成した時点では、コーヒーは温かいということになる。

物質は、温度が上昇することで体積が膨張する「熱膨張」という特性を持っている。

液体が気体になると、体積は1600倍も増えるといわれている。

缶コーヒーは熱いうちに缶に詰められるが、すぐに冷めてしまう。

つまり、体積が減ってしまうためにml表記することができないのである。

体積が変わっても、重さは変わることがない。

だからコーヒーはグラム(g)表記されているのである。

ちなみに、お茶なども同じ理由でグラム(g)表記されている。

 

 

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【歴史の闇に葬られた真実】赤穂事件の不忠者「大野九郎兵衛」。

 

歴史の闇に葬られた真実

 

 

大野九郎兵衛

 

 

 

 

 

 

 

歴史は勝者によってつくられる

 

 

我々がよく知る歴史の記述は、必ずしも客観的な事実の記録ではなく、勝者の視点や都合の良いように解釈・再構成されることが多い。

歴史は、過去の出来事を単に記録するだけでなく、その出来事をどのように解釈し、どのように伝えるかによって、人々の認識や価値観を形成する力を持つ。

そのため、勝者が自らの正当性や優位性を強調するために、歴史を都合よく書き換えることがあるのだ。

たとえば戦争や革命などの歴史的な出来事では、勝者が自らの行為を正当化し、敗者を悪として描くことで、自らの立場を強化しようとすることがある。

また、国家の成立や発展の過程でも、建国の英雄や偉人たちの物語を美化し、都合の悪い事実を隠蔽することがある。

このことから歴史の解釈や記述において、権力や支配者の影響がいかに大きいかがよくわかる。

だが歴史の解釈はひとつではない。

歴史を鵜呑みにしていいのか?

勝者の言い分は、本当に正しいのか?

教科書に書かれたことを疑うことで、初めてみえてくるものがある。

そのためには、敗者や弱者の視点から歴史を再考することが肝要だ。

歴史を多角的に捉え、様々な視点から検証することで、より客観的な歴史認識に近づくことができる。

 

 

 

勝者=善と単純に結びつけてしまう思考の危険性

 

 

特に中学・高校の日本史の教科書は政治史が中心で、必然的に勝者の歴史が描かれ、それが日本史の流れとして理解される。

勝った側が善とされ、敗者は悪とされることで、結果的に「正義は勝つ」と教え込まれる。

勝者が善で、敗者が悪という歴史観の極致が「征伐」という言葉である。

たとえば豊臣秀吉の天下一統の流れを追う時、無意識のうちに四国征伐九州征伐小田原征伐、さらに朝鮮征伐という言い方がされてきた。

これは敗者は悪とされ、悪人だったために、正義、すなわち勝者によって滅ぼされたという論理の組み立てで、勧善懲悪という考え方を深くすり込まれてきた。

そのせいで、現代日本人は多角的な考え方が苦手になってしまったように思えてならない。

勝者=善という決めつけは、思考の柔軟性を奪ってしまう。

敗者=悪という決めつけが、同調圧力を生み出す。

敗者にも成したことがあり、言い分だってあるのだ。

固定観念ほど怖いものはない。

歴史の闇に葬られた真実に目を向けることで、固定観念にとらわれない、柔軟な思考を手に入れる。

本稿がその一助になれば幸いだ。

 

 

 

冷静すぎた判断力が仇に?

 

 

芝居「仮名手本忠臣蔵」の中で、同じ家老職でありながら対照的な生き方をした二人の武士が登場する。

その二人は実在の人物をモデルにしており、一方はご存知大石内蔵助(役名・大星由良之助)。

そしてもう一方が大野九郎兵衛(役名・斧九太夫)だ。

祇園一力茶屋の場面で由良之助の動静を下から窺う卑怯なスパイーーーそれが九太夫である。

この場面からもわかるように、大野九郎兵衛に対する世間のイメージは "腰抜け武士" 、あるいは "逐電家老" などといわれ、けっして良いものではない。

そもそも知名度が低すぎる、

映画『身代わり忠臣蔵』でももちろん登場しているが、「忠臣蔵」序盤のキーパーソンのわりに、その登場はほんの一瞬、たったワンシーンだけと非常に残念な扱いだ。

 

 

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大石内蔵助と大野九郎兵衛。

同じ赤穂藩の重役でありながら、一方の内蔵助は吉良邸討ち入りに見事成功して武士の鏡と称賛されたのに対し、討ち入りに加わらなかったばかりに九郎兵衛の方は300年先の今日まで汚名を着ることとなった。

いったい二人の運命を分けたものとは、何だったのだろうか。

そして九郎兵衛は、本当に卑怯未練な腰抜け武士だったのだろうかーーー。

播州赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助のもとに、その衝撃的な事件の第一報が江戸鉄砲洲の赤穂藩邸からもたらされたのは、1701(元禄14)年3月19日早朝であった。

早見藤左衛門、萱野三平の両人が早打ち駕籠を仕立て、155里(約600km)の道程を四昼夜で駆け抜けてきたのである。

内蔵助は両人から渡された手紙によって、主君・浅野内匠頭長矩が殿中で吉良上野介に刃傷に及んだことを知る。

まさに、お家存亡の一大事である。

内蔵助は直ちに在国藩士200数十人を総登城させた。

こうして、この日から内蔵助と大野九郎兵衛の運命は大きく変転することになった。

当時、赤穂藩には大石内蔵助(1500石)、藤井又左衛門(800石)、安井彦右衛門(600石)、そして大野九郎兵衛(600石)という4人の家老がいた。

内蔵助以外は才幹によって抜擢された一代家老である。

九郎兵衛は元禄以前は組頭であったが、元禄の初年に家老に昇進した。

理財に長けており、特産の赤穂塩の製造と販売に才を発揮し、藩財政を大いに潤わせることに貢献したという。

この九郎兵衛が、開城か籠城かを巡り、内蔵助と激しく対立する。

内蔵助らの一派は籠城戦か、さもなければ開城の後切腹して殉死を遂げるという強行案を主張したのに対し、九郎兵衛らの一派は、ここは公儀の心証を悪くしないために開城し、その後お家再興を図るべきと説いた。

さらに、藩士への分配金(つまり退職金)を巡っても、内蔵助と九郎兵衛はぶつかった。

内蔵助は小禄の者を助けるために高禄になるほど減らしたほうが良いといい、九郎兵衛は高禄になればそれだけ出費も多いのだからここは禄高に応じて分配すべきと譲らなかった。

両方の折衷案を採用することで分配金の問題は解決したものの、開城か籠城かの結論はまだ出ていなかった。

騒然とした空気が支配する中、九郎兵衛が一族を伴い、赤穂を逐電してしまう。

4月11日夜のことである。

籠城して武士の意地を見せるという内蔵助ら過激派の情緒的意見には、理性的な九郎兵衛はついていけなかったのだろう。

それはともかく、在国藩士200数十人のうちで60人ほどが内蔵助の意見に賛同し、籠城を決めた。

無論、この小勢で城を守ることなど到底無理である。

そこで、自然と切腹によって抗議の気持ちを天下に示そうということになった。

これに驚いたのが、広島の浅野本家である。

籠城した挙げ句切腹などされては、公儀の裁定に対する不満をあからさまに表明したことになり、後日浅野本家に塁が及ぶことは火を見るより明らかだった。

そこで浅野本家では、井上団右衛門という者を使者に遣わし、開城に応じるよう内蔵助を説得させた。

結局この時の団右衛門の説得に折れる形で、内蔵助は開城に踏み切る。

4月19日のことである。

さて、大野九郎兵衛。

開城の直前に赤穂を出奔した九郎兵衛とその一族は、大坂の赤穂藩塩問屋・塩屋五郎兵衛方の離れに落ち着いた。

ここで赤穂藩の再興運動を行なったといわれているが、確証はなく、すぐにその消息は途絶えてしまう。

こうして逐電家老ーーー大野九郎兵衛は歴史の闇の彼方へ消えてしまった。

しかし、九郎兵衛が訪れたという伝承や九郎兵衛の墓と称する史跡が青森県東津軽郡山形県米沢市福島県会津山梨県甲府市群馬県安中市、京都東山など全国の至る所に伝わっているのである。

この中で確度が高いのは群馬県安中市の磯部で、九郎兵衛が林遊謙と名乗り、近在の子供相手に手習いの師匠をしていたという話だ。

磯部温泉の松岸寺には「慈望遊謙居士」と刻まれた墓もある。

赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件の報がこの磯部にも伝わると、遊謙は数日間、家に閉じ籠って姿を見せなかったという。

そして後年、遊謙が亡くなって村人が遺品を整理していると、大石内蔵助の密書が見つかった。

その密書とは、自分(内蔵助)が襲撃に失敗した際は第二陣として上野介の首をあげてくれるよう、九郎兵衛に依頼したものだった。

村人らはそこで初めて、この手習いの師匠が大野九郎兵衛だということを知るのである。

密書は九郎兵衛の墓の傍らに大切に埋められたが、そのうち何者かに盗まれてしまったという。

九郎兵衛がなぜこの群馬(上州)に滞在したかといえば、当時、上州には上野介の領地1000石があったことと無関係ではない。

内蔵助らが襲撃に失敗した場合、上野介はそのまま江戸の屋敷に留まるわけにもいかず、かといって実子・綱憲がいる米沢の上杉家は公儀の目を気にして身柄を引き取ることに消極的だ。

本領の三河へ向かうにも、世間の反発を考えれば、東海道を下って無事に辿り着ける保証はない。

そこで九郎兵衛はこの上州にやってくる可能性が高いと読み、身元を隠して待ち伏せしていたのだという。

真実はわからない。

内蔵助の密書と称するものが発見されない限り、あくまでも伝承の世界である。

この九郎兵衛第二陣説は山形にも伝わっている。

米沢に近い板谷峠という所に「南無阿弥陀仏」と彫られた16基の碑があり、これが九郎兵衛一族の墓だという。

つまり上野介が上杉家を頼って峠を越えてくるところを、待ち伏せする作戦だった。

しかし内蔵助らの襲撃が成功したことを伝え聞くと、九郎兵衛一族は「もはや未練はなし」と、ここで割腹して果てたのだという。

話としては大変面白いが、なぜ自害する必要があったのだろうか…。

その一方で九郎兵衛は晩年、京都・仁和寺近くに住み、世間の目を気にしながら細々と暮らしていたという伝承もある。

それを裏付けるのが、九郎兵衛の実弟とされる伊藤五右衛門の書簡が発見されたことだ。

この中に九郎兵衛が某4月6日、京都で亡くなり、黒谷墓地に葬られたと記されていた。

伊藤五右衛門の手紙の宛先は元赤穂藩の御用商人だった男で、手紙の信憑性は極めて高い。

九郎兵衛は京都で亡くなっていたのである。

ここで注目したいのは、九郎兵衛が世間の目を気にして暮らしていたという土地の言い伝えである。

九郎兵衛がもしも内蔵助と密約を結び、第二陣として上野介を狙うつもりであったなら、それを裏付ける内蔵助の書簡をきっと所有していたはずだ。

その書簡を世間に公表すれば、九郎兵衛は天晴れな赤穂浪士の同志ということになり、なにも世間をはばかって暮らす必要はないわけだ。

それをしなかったということは、密約は無かったことの何よりの証拠といえる。

それはさておき、九郎兵衛の不幸には同情を禁じ得ない。

討ち入りに参加しなかった藩士の方が、参加した藩士よりずっと多いわけで、九郎兵衛だけが "不忠者" として矢面に立たされるのは不公平である。

開城か籠城かで内蔵助と揉めた時の言動からもわかるように、九郎兵衛という人は至って冷静な判断力の持ち主だ。

それだけに先がみえすぎて、逐電という形で人より先走った行動に出てしまったのだろう。

しかし、お家の再興、あるいは籠城した場合の領民や本家筋への迷惑などを考え、九郎兵衛は九郎兵衛なりに、あの時自分へ最良の決断を下したと固く信じていたに違いない。

 

 

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今すぐ誰かに話したくなる知的雑学【知識の泉】「PCのマウスが動く距離の単位はミッキー!?」

 

知識の泉

今すぐ誰かに話したくなる知的雑学

 

 

PCのマウスが動く距離の単位はミッキー!?

 

 

 

 

 

 

 

知識は力なり

 

 

かの有名なイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは言った。

「知識は力なり」と。

この言葉には、読んで字の如く「知識は自身の力になる」という意味とは別に、「経験によって得た知識を、いかにして実践的に使用することができるのか」という意味も込められている。

雑学も同様だと思う。

実際には、生きていく上で何の役にも立たないと思われている、どうでもいい情報群。

それが雑学という分野といえるだろう。

しかし雑学で得た知識を、どのように使うのかは人それぞれ。

普段の話のネタに困っている人。

トーク力を上げたい人。

飲み会やデートなどで知識を披露したい人。

知識を吸収したいけどあれこれ調べるのが面倒な人。

そして、物事の本質や奥深さを知りたい人。

純粋に「なるほど!」と思いたい人まで。

当たり前に感じていたことも、角度を変えた視野からみることで、別の面があることに初めて気付かされる。

その知識を他人にひけらかすだけでなく、その知識をもとに、固定観念から解放され、世の中の見え方を変えようではないか。

さすれば、「知識は力なり」の言葉の意味を実感できるはずである。

 

 

 

1ミッキーは100分の1インチ

 

 

PCで使われる用語の中で、大きさや距離などを表す単位としてドットやピクセルなどがある。

さらには、マウスを動かした距離を表す単位は「ミッキー」であるという、まるで冗談のような噂がある。

本当なのだろうか。

結論からいうと、本当。

当時のMicrosoft社で、マウスを動作させるためのプログラムを開発していたエンジニアが命名した。

「手元に握ったマウスをこれくらい動かすと、画面上のマウスカーソルがこれくらい動く」といった対比で、この単位が使われる。

ちなみに、1ミッキーは100分の1インチ(約0.0254cm)で、「マウスを1ミッキー分動かした時、画面上のマウスが何ドット動くのか」などの計算に用いられる。

ところで、マウスの単位だからミッキーマウス?と思った、そこのあなた。

まさにその通り。

命名者は、マウスとディズニーのキャラクターであるミッキーマウスをかけて、ミッキーと名付けたのである。

 

 

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【日本映画『身代わり忠臣蔵』】300年間擦り倒されてきた「忠臣蔵」の新発見。

 

日本映画

身代わり忠臣蔵

※本稿はネタバレを含みます。ご注意下さい。

 

 

300年間擦り倒されてきた「忠臣蔵」の新発見

 

 

 

 

 

 

 

日本映画『身代わり忠臣蔵』とは

 

 

江戸中を巻き込んだ絶対にバレてはならない

"世紀の身代わりミッション" START!!

 

映画超高速!参勤交代『引っ越し大名!』といった 大ヒットコメディ時代劇を生み出した脚本・土橋章宏氏による同名小説が満を持して映画化!

主演・ムロツヨシ氏を筆頭に永山瑛太氏や川口春奈さんら豪華キャスト陣で贈る、痛快時代劇エンターテイメントが誕生!

嫌われ者の殿・吉良上野介(ムロツヨシ)が江戸城内で斬られ、あの世行き!

斬った赤穂藩主は当然切腹

だが、殿を失った吉良家も幕府の謀略によって、お家存亡の危機に!!

そんな一族の大ピンチを切り抜けるべく、上野介にそっくりな弟の坊主・孝証(ムロツヨシ)が身代わりとなって幕府をダマす、前代未聞の【身代わりミッション】に挑む!

さらに、敵だったはずの赤穂藩家老・大石内蔵助(永山瑛太)と共謀して討ち入りを阻止するというまさかの事態に発展!?

幕府に吉良家に赤穂藩も入り乱れ、バレてはならない正体が…遂に!?

 

果たして孝証は、江戸を舞台に巻き起こる一世一代の大芝【身代わりミッション】をコンプリートできるのか!

 

 

身代わり忠臣蔵

身代わり忠臣蔵

 

 

身代わり忠臣蔵 豪華版 [Blu-ray]

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原作:「身代わり忠臣蔵

 

『身代わり忠臣蔵は、土橋章宏先生が2018年に発表した日本の小説である。

幻冬舎より出版。

時代劇「忠臣蔵」をモチーフに、吉良上野介が松之大廊下での刃傷沙汰で死亡し、彼にそっくりな弟が替え玉に仕立て上げられたことで起こる騒動を描く。

 

 

身代わり忠臣蔵 (幻冬舎時代小説文庫)

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あらすじ

 

 

浅野内匠頭が積年の恨みから吉良上野介を襲い、切腹を命じられる。

赤穂浪士は主君のために復讐に向かう――。

これが、史実に残る忠臣蔵

ところが、討ち入り前に吉良が急死してしまった!

逃げ傷で死んだとなれば、お家取り潰しは避けられない。家臣は、たまたま金の無心に来ていた主君の弟・考証を替え玉にするが……。一方、大石も本音では、勝手に死んだ主君の復讐なんてしたくない。だが、世間の空気はそれを許さない。考証と大石は世を欺くため、世紀の大芝居を決行する! 偽者の吉良と不忠の大石が繰り広げる、新解釈・忠臣蔵

 

 


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登場人物

 

 

 

 

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  • ナレーション:森七菜

 

 


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300年擦り倒されてきた「忠臣蔵」にもまだあった新しい気づき

 

 

若い世代の半数が「忠臣蔵」を知らないという衝撃

 

いわゆる「赤穂(浪士)事件」は、江戸幕府の成立(1603年)からおよそ1世紀が経ち、戦国が遺風となった時代。

人々が平和に慣れ出した頃、リアルな "命のやりとり" が披露されたことで世の中の注目を一斉に浴びることになる。

赤穂浪士が刑死を覚悟して主君への忠義を尽くし、自刃して果てるという劇的な結末から、事件の翌年から様々な形で上演されるようになった。

いわゆる「忠臣蔵」の作品群である。

それからおよそ300年。

忠臣蔵」に、かつての勢いはない。

それでも邦画では、1910(明治43)年に始まり、たびたび「忠臣蔵」を映像化されてきた。

最近では海外作品にも、忠臣蔵を原型とする作品が作られている。

だが、若い世代の半数が「忠臣蔵」を知らないという衝撃の事実は、現代での「忠臣蔵」の知名度が激落ちていることを殊更実感させる。

だからなのだろう。

近年では王道「忠臣蔵」ではなく、最後の忠臣蔵(2010年)や『決算!忠臣蔵(2019年)など、我々がよく知るものとは違ったアプローチで「忠臣蔵」は描かれている作品が目立つようになった。

最後の忠臣蔵では、討ち入りに参加しなかった浪士のその後をみせ、『決算!忠臣蔵では、記録に残る資料から財政的な側面を物語の中心に据えて、"カネ次第"という実情を活写していた。

本作もまた、王道「忠臣蔵」とは趣が異なる。

多くの作品で "逃げのびた悪役" とされる吉良上野介本人が、「実は松の廊下刃傷事件で死んでいた」という新設定。

史実と照らし合わせてしまうならば、ツッコミどころは満載だ。

従来の重厚な「忠臣蔵」のイメージをひっくり返してしまうほど濃いコメディ色は、史家や歴史ヲタに歴史への冒涜と受け止められかねない。

事実、やり過ぎた感は否めない。

しかし、だからこそ、娯楽映画として成立したのではないだろうかと思うのも、また事実。

300年もの長い歳月で擦り倒されてきた「忠臣蔵」に、最早新しい発見など期待できない。

新しい気づきのない擦り倒された作品を、誰が楽しんで観るというのか。

それは復習ではなく、もはや苦行だ。

その既視感を、歴史のifで、面白おかしく脚色するのは、けっして悪いことではない。

ただし、その歴史のifがデタラメではいけない。

わずかでも、その可能性が無くては歴史作品として破綻しているからだ。

だからこそ、史実に基づく本作のような作品をさらに深く楽しむために、正しい歴史認識が必要だ。

どこまでが史実で、どこからが歴史のifなのかを正しく認識することで、本作は格段に面白くなる。

かつての「忠臣蔵映画」は、時代のうねりのなか、「忠義のため」命をかけた人々の壮大で重厚なものが中心とされ、“討ち入り”が最大のクライマックスとなっていた。

しかし最後の忠臣蔵『決算!忠臣蔵も、それとは他の部分にフォーカスしている。

本作もそれに連なる作品であり、ひとりが犠牲になることですべてが丸く収まるという、まったく新しいアプローチで「忠臣蔵」が描かれている。

コメディとして観れば、王道を知る人はもちろん、もしかしたら本作で初めて「忠臣蔵」を知った人でも楽しませてくれる歴史作品だろうと思う。

古来より日本人に広く愛されてきた「忠臣蔵」。

本作を機に、歴史好きが増えてくれたら嬉しい。

それにしても、安定すぎる吉良上野介の稀代の悪役ぶりはどうだろう。

日本人のDNAにまた、吉良上野介=悪玉のイメージが深く刻まれてしまうことは、歴史ヲタとしては少し複雑な気分である。

 

 

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忠臣蔵」にもまだあった新しい気づき

 

本作の主人公は、有力な旗本の実子(吉良上野介の弟)でありながら、末弟ということで家を出された吉良考証。

吉良上野介に弟がいたことは、もちろん知っている。

正確に言えば、「知っている」というより「当然いるだろうね」という認識である。

この時代の、特に有力な旗本ともなれば、家名を存続させるために多くの子を作らなければならなかった。

吉良上野介も例外であるわけがなく、弟の一人や二人いて当たり前である。

だが、吉良上野介に興味はあっても、その弟に興味があるわけではない。

歴史の表舞台に登場しない弟のことを、詳しく知っているわけもない。

というわけで、まったく知らなかった吉良考証という人物について、とりあえず調べてみる。

吉良考証。

一応「寛政重修諸家譜」にも記載のある、実在の人物。

らしいのだが、詳しい史料はほぼない。

出家して僧になったのは事実であるようだ。

が、本作で描かれたように、別に落ちぶれたという記述はない。

没年も記載がないので、この時点で生きていたかどうかも定かでない。

もう少し深く調べてみると、どうやら豊蔵坊(信海)の弟子とある。

豊蔵坊(信海)は、どうやら大石内蔵助ゆかりの太西坊と同じく男山(石清水八幡)にいたらしく、本作のように彼らに何らかの接触があってもたしかに不自然ではない。

ただし、実際の信海は元禄元年に亡くなっているので、赤穂事件の頃にはすでに亡い。

では、「忠臣蔵」の舞台となる元禄15年頃の豊蔵坊主は誰だったのか。

そう考えていくと、あるひとつの歴史のロマンに辿り着く。

もしかしたら孝証がその人かもしれない。

豊蔵坊は徳川家の祈願所ということだから、出家とはいいながらも、それなりの家柄の人でなければならない可能性が高い。

ならば、高家筆頭である吉良家出身というのは相当有利なはずである。

しかも「孝」の字を継承している。

実際、元禄15年頃の豊蔵坊主が誰だったのかは定かではない。

だがこのような新しい可能性、新しい気づきがあるから歴史は面白い。

誰も知らないような人物にフィーチャーしたことで、300年擦り倒されてきた「忠臣蔵」にまた新しい気づきが生まれたことは、本作の隠れた功績である。

吉良孝証が豊蔵坊主であった可能性は大いに残っているが、孝証は既に(延宝5年)亡くなっていたらしい(『参河志』より)。

延宝5年というと大石が家督を継いだ年であり、孝証と内蔵助二人が出会った可能性は、残念ながらまあ無さそうではある。

しかし一般的にはほぼ無名の吉良孝証に着目した土橋章宏氏、さすがと言わざるを得ない。

 

.豊蔵坊は徳川家康の祈願所であったという。

信海は、山城男山八幡宮の社寺豊蔵坊の社僧。

名は孝雄,字は子寛,別号は玉雲翁,覚華堂など。

 

 

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【歴史の闇に葬られた真実】天下人に仕えた名軍師「黒田官兵衛」。

 

歴史の闇に葬られた真実

 

 

黒田官兵衛

 

 

 

 

 

 

 

歴史は勝者によってつくられる

 

 

我々がよく知る歴史の記述は、必ずしも客観的な事実の記録ではなく、勝者の視点や都合の良いように解釈・再構成されることが多い。

歴史は、過去の出来事を単に記録するだけでなく、その出来事をどのように解釈し、どのように伝えるかによって、人々の認識や価値観を形成する力を持つ。

そのため、勝者が自らの正当性や優位性を強調するために、歴史を都合よく書き換えることがあるのだ。

たとえば戦争や革命などの歴史的な出来事では、勝者が自らの行為を正当化し、敗者を悪として描くことで、自らの立場を強化しようとすることがある。

また、国家の成立や発展の過程でも、建国の英雄や偉人たちの物語を美化し、都合の悪い事実を隠蔽することがある。

このことから歴史の解釈や記述において、権力や支配者の影響がいかに大きいかがよくわかる。

だが歴史の解釈はひとつではない。

歴史を鵜呑みにしていいのか?

勝者の言い分は、本当に正しいのか?

教科書に書かれたことを疑うことで、初めてみえてくるものがある。

そのためには、敗者や弱者の視点から歴史を再考することが肝要だ。

歴史を多角的に捉え、様々な視点から検証することで、より客観的な歴史認識に近づくことができる。

 

 

 

勝者=善と単純に結びつけてしまう思考の危険性

 

 

特に中学・高校の日本史の教科書は政治史が中心で、必然的に勝者の歴史が描かれ、それが日本史の流れとして理解される。

勝った側が善とされ、敗者は悪とされることで、結果的に「正義は勝つ」と教え込まれる。

勝者が善で、敗者が悪という歴史観の極致が「征伐」という言葉である。

たとえば豊臣秀吉の天下一統の流れを追う時、無意識のうちに四国征伐九州征伐小田原征伐、さらに朝鮮征伐という言い方がされてきた。

これは敗者は悪とされ、悪人だったために、正義、すなわち勝者によって滅ぼされたという論理の組み立てで、勧善懲悪という考え方を深くすり込まれてきた。

そのせいで、現代日本人は多角的な考え方が苦手になってしまったように思えてならない。

勝者=善という決めつけは、思考の柔軟性を奪ってしまう。

敗者=悪という決めつけが、同調圧力を生み出す。

敗者にも成したことがあり、言い分だってあるのだ。

固定観念ほど怖いものはない。

歴史の闇に葬られた真実に目を向けることで、固定観念にとらわれない、柔軟な思考を手に入れる。

本稿がその一助になれば幸いだ。

 

 

 

たったひと言の失言が命取りに

 

 

政治家の述懐を聞くと、凄いという他ない非情談に出会う。

「自分を放逐することになるとすれば、それは何某であろう」

あるいは、

「今度、派を作る時には、何某だけは入れない」

などという。

その何某が誰か、この際どうでもいいことだが、裏切られ、足元をひっくり返されまじき人物がいたのは確かであり、それなら反目し合っていたかといえば、そうではない。

一見和気あいあいと同志的結合のもとに、仲良く交際している。

人の世はこんなものだというのは簡単だが、今も昔も用心し、警戒すべき人物がおり、しかもそんな者ではなくては、ものの用に立たないというのも真実である。

そして、如水・黒田官兵衛(孝高)がそうであった。

豊臣秀吉の補佐役として活躍した名参謀の黒田官兵衛は、播磨の弱小大名・小寺家の家老の家に生まれた。

小寺家が毛利方につくか織田方につくかで揉めた時、官兵衛ただひとりが信長の勢いを説いて、織田方に帰属するよう主張したという。

この主張が入れられ、1575(天正3)年、官兵衛は小寺家から信長のもとに遣わされた。

信長は殊の外喜び、官兵衛に刀を授けたと伝えられている。

その後、秀吉に仕えることになった官兵衛は、目を見張るような働きぶりで、秀吉から絶大な信頼を得た。

ところが1578(天正6)年、信長の重臣荒木村重が摂津で謀叛を起こす。

官兵衛は村重を説得するため有岡城に向かったが、なんとそこで土牢に放り込まれてしまった。

一向に帰ってこない官兵衛に、織田陣営では寝返ったのではないかという噂まで流れた。

翌年、織田軍の攻撃によって有岡城が陥落すると、官兵衛は奇跡的に助け出される。

しかし、湿気の多い土牢に閉じ込められていたため痘瘡に冒され、狭い土牢内で伸ばせなかった足は、曲がったままとなっていた。

こんな目に遭いながらも村重方に寝返らなかった官兵衛に誰もが感銘を受け、官兵衛は1万石を与えられて大名となった。

片足は終生不自由で、痘瘡も治らなかったが、着々と地場を固めることができた。

しかし本能寺の変に際しての秀吉へのひと言が、それまでの信頼を一気に失わせた。

官兵衛は、信長の死を知って泣きじゃくる秀吉を、

「これで御運が開けますぞ」

と励ましたというのである。

主君の死を立身のために利用せよ、ということだ。

いくら理屈が通っていようとも、このタイミングで口にしてはいけない言葉だった。

この軽率なひと言で、秀吉は官兵衛を警戒することになる。

いくら参謀として優秀でも、官兵衛には気を許せないーーー。

それからも官兵衛は数々の戦功をあげるが、秀吉が与えたのは豊前中津の12万石だけだった。

大きな力を持たせれば、天下を狙うに違いないと勘繰られたのである。

こんな話がある。

太閤となった秀吉が、ある時近侍の者に、

「自分の死後、天下を取る男は誰だと思うか」

と訊ねたことがある。

あるいは徳川家康をいい、あるいは前田利家をいい、あるいは上杉景勝毛利輝元の名をあげた。

いずれも大大名である。

しかし秀吉は首を振り、

「もうひとりいる」

と、僅か12万石の身代でしかなかった官兵衛の名をあげ、 こういった。

「わいら、官兵衛という男の怖ろしさを知らんのだ」

官兵衛はつまり、蓋世の雄・秀吉さえも畏怖させるほどの人物だったのである。

1589(天正17)年、官兵衛は44歳の若さで秀吉に隠居を願い出る。

所領は嫡子・長政に譲られたが、それでも秀吉は官兵衛を身近に置いた。

これも、警戒し続けたためと考えられる。

関ヶ原の戦いで天下を取った家康も、官兵衛を怖れたという。

官兵衛と親交のある者をわざわざ遣わし、

「諸将と密談したり、醍醐や山科に兵を隠しているというではないか」

と問いただしたところ、官兵衛は扇を畳に投げつけて、

「天下を取ろうと思ったら、簡単である」

と叫んだという。

皮肉な言葉に嫌気がさしたのか、それとも本当に野望を抱いていたのか。

官兵衛に野望がなかったかといえば、そうではない。

関ヶ原の戦いはたった1日で決しているが、勝敗を決めたのは有名な小早川秀秋の裏切りによるものだった。

そしてそのように秀秋を使嗾したのは、他ならぬ倅の長政だった。

それを聞いた官兵衛は慨嘆して、こういったという。

「さても長政は愚か者である。慌てて家康に勝たせて、なんの利益があろうか。天下を分ける大戦ともなれば、じっくり楽しんでやるものだ」

関ヶ原の戦いの際、官兵衛は雑多な軍勢で九州の西軍大小名を攻め、瞬く間に九州を席巻していたが、官兵衛は何も九州で家康のために働いたのではなかった。

真意はたぶん、東西いずれが勝つか知らぬが、勝った方と天下を賭けて戦うことにあっただろう。

大戦に勝ち、手柄を立てた長政が、官兵衛に得意げにいった。

「家康公は我が手を取って頭に押しいただき、勝利はひとえに、そなたのおかげだと申されました」

官兵衛は憮然としていった。

「家康公が押しいただいた手は、右が左か」

長政は答える。

「右手でありました」

すると官兵衛は、さらに問いただした。

「その時、お前の左手は何をしていたのか」

長政は絶句した。

空いている方の手で、家康を刺し殺すことができたではないか、という意味である。

 

 

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美しき日本語の世界。[其の五十二]【言葉遊びに見られる皮肉】

 

其の五十二

美しき日本語の世界。

 

 

言葉遊びに見られる皮肉

 

 

 

 

 

 

 

江戸っ子の皮肉

 

 

江戸の皮肉は、主に「狂歌」や「川柳」といった言葉遊びに見られ、当時の社会や政治を風刺したり、庶民の日常の出来事を面白おかしく表現したりした。

また、絵画においても、直接的な表現を避けながら、巧みに風刺や批判を込める技法が用いられた。

 

 

 

狂歌と川柳

 

 

狂歌

 

江戸時代後期に流行した、滑稽で風刺的な歌である。

教養ある武士や町人の間で広まり、政治や社会を風刺する作品も数多く生まれた。

 

 

川柳

 

狂歌の影響を受け、七七の前句を除いた五七五の句として定着した。

庶民の日常や世相を皮肉り、現代の川柳にまで繋がるユーモア文化の源泉である。 

 

 

 

その他の表現

 

 

浮世絵

 

歌川国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」のように、一見すると神話や物語を描いているように見えても、実は幕府の改革を風刺する意図が込められていた。

 

 

言葉遣い

 

たとえば「馬の骨」という言葉には、素性の知れない者を指すほか、粗悪な油(馬の骨の膏)を指す皮肉な意味合いもあった。

 

 

落語

 

登場人物の口調で、その性格や社会的な立場を皮肉ったり、風刺したりする演出技法が用いられた。 

 

 

 

言葉の奥深さは洋の東西を問わない

 

 

「ググれカス」という言葉がある。

Googleで検索すればすぐわかるようなことなのに、他人に聞くのはやめろ」という意味で、2000年代初頭に広まったインターネットスラングのひとつである。

(このようなカス…もとい、このような困った人が最近あまりに多すぎてうんざりするのだが…)

実は、英語にも「ググれカス」という言い回しがあるのをご存知だろうか。

しかも、日本語よりも皮肉たっぷりで?

 

Google is your friend.

 

「ググれカス」を英語で表現すると「Google is your friend.」となるらしい。

直訳は「Googleはあなたの友達です」と訳さるが、真意は「まず自分で調べろ」である。

オシャレな響きだが、よくよく考えてみると京言葉的な皮肉っぽさが混じってて、どこか品の良さを感じさせる。

日英で共通するスラングやネット用語、実は他にもたくさんある。

 

  • 「That is a very brave proposal(それは勇敢な提案ですね)」→「ばかげている」

 

  • 「I hear what you say(言いたいことはわかりました)」→「もうあなたとは話したくない」

 

どんな言語にも、皮肉めいた表現はたくさんあるようだ。

 

 

 

知性と語彙力が試される皮肉

 

 

ユーモアある皮肉を理解するためには、知性も語彙力も必要だ。

知性と語彙力がなければ、皮肉も通じない。

何せ、言葉を解する能力が圧倒的に欠如した人間である。

皮肉が通じない人だから、オブラートに包んだ表現はもちろん一切通じない。

だが、面と向かって厳しく注意することが憚られる現代である。

厳しく指導されることなど、もはやない。

ダメ出しですら、今後はすべて、やんわり伝えることになるのだろう。

しかし、優しく伝えたはずの忠告がまったく伝わらないとなると、周りからは「言っても無駄な人間」「言うだけ無駄な人間」だと思われてしまう。

"今だけ、自分だけ" の人なら、周りに迷惑さえ掛けなければそれでもいいが、格好いい大人を目指すなら、最低限の知性と語彙力は持ち合わせていたいものである。

 

 

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