In This Country 〜明日への勝利〜 / Robin Zander (1987年)
F1黄金期を支えた名曲は伝説になったアイルトン・セナへ捧げるレクイエム
ロックのバラードこそ最強説
音楽のジャンルは年々多岐に渡り、あらゆるジャンルの垣根もなくなりつつある昨今。
そんな世でも、ひとつの確信だけは自分の中に根強く残っている。
それがロックのバラードこそ最強説だ。
ただのロックのバラード好きなだけのような気もするが、なるべく多くの人に共感してもらうべく、本稿ではロックのバラードの名曲をご紹介していきたいと思う。
「In This Country 〜明日への勝利〜」とは
「In This Country 〜明日への勝利〜」は、歌手でギタリストであるロビン・ザンダー(Robin Zander)の楽曲。
ロビン・ザンダーは、1973年にチープ・トリックのボーカルとしてデビューしているが、本作は自身のオリジナル。
1987年の映画『オーバー・ザ・トップ』の挿入歌やフジテレビ系「F1グランプリ」のエンディングテーマなどに起用されたことから日本でも人気がある。
オーバー・ザ・トップ オリジナル・サウンドトラック(期間生産限定盤)
F1黄金期を支えた名曲は伝説になったアイルトン・セナへ捧げるレクイエム
アイルトン・セナ、伝説のモナコGP
1992年の5月31日、モナコのモンテカルロ市街地コースでは、アイルトン・セナとナイジェル・マンセルの激戦が繰り広げられた。
今もF1の歴史上、最も記憶に残る1戦としても知られている、あのレースである。
舞台はモンテカルロ市街地コース。
曲がりくねった公道コースであり、道幅は非常に狭い。
こんな場所で時速300kmオーバーのレースをしようというのだ。
今の基準なら、とてもFIAの認可は下りなかっただろう。
しかし1950年からF1を開催してきた伝統が、モンテカルロでのレースを可能にしている。
このコースでは、幾度となく素晴らしいレースが展開されてきた。
そのうちのひとつ。
伝説のモナコGPといえば、多くの人が1992年のレースを挙げるだろう。
日本でも素晴らしい実況も相まって、今も語り継がれている。
それを如実に表したのがこの1992年のレースである。
オーバーテイクが難しいことは、近年ではF1を退屈にさせるひとつの要因だと言われてきた。
しかし1992年のモナコGPは、"オーバーテイクが難しい" ことにより、F1の歴史上最もエキサイティングなレースのひとつに位置付けられる激戦が繰り広げられ、マクラーレンMP4/7A・ホンダを駆るアイルトン・セナが勝利を収めた。
このレース前の段階では、セナが勝つ可能性はほぼ皆無と見られていた。
同年、ウイリアムズFW14B・ルノーという超高性能の武器を手にしたナイジェル・マンセルは、開幕から圧倒的な強さをみせて開幕5連勝。
無敗の状態でモナコに乗り込んだのだ。
予選では、ウイリアムズがやはり速さをみせる。
マンセルがポールポジションを手にし、そのチームメイトであるリカルド・パトレーゼが2番手。
セナは1.1秒遅れの3番手だった。
セナにとっての唯一のチャンスは、マンセルが何らかの形でトラブルに見舞われることだった。
ただ、先頭のマンセルは予想以上に速かった。
1周につき1秒ずつセナとの差を開いていき、独走状態に入っていったのだ。
2番手のセナは、長い戦いになると考え始めていた。
そしてマンセルに問題が発生した際にすぐに攻撃に転じることができるよう、バランスを取り、タイヤを労っていた。
そしてマンセルが実際にトラブルに見舞われた時、セナの努力が報われることになった。
71周目のことだった(レースは全78周)。
トンネルを出た直後、マンセルはリヤに違和感を感じたのだ。
彼はリヤタイヤがパンクしたと信じ、タイヤ交換を行なうべくピットに無線を飛ばした。
マンセルのピットストップを予期していなかったチームは、マンセルのタイヤ交換に手間取った。
しかもマンセルは3つのホイールのみがしっかりと機能する状況の中でピットストップを行なったため、停止位置がずれてしまった。
さらには右リヤタイヤの交換にも手間取った。
残り7周、ついにセナが先頭に立った。
マンセルは5秒遅れでコースに復帰し、追い上げを開始した。
その差は次の周に4.3秒、次に1.9秒……
そして残り3周という段階でテール・トゥ・ノーズの状態になった。
ふたりの速さの差は圧倒的。
まさに "どこからでも抜ける" 状況であるように見えた。
しかしマンセルは最高のマシンと新しいタイヤを手にしているにもかかわらず、セナは巧みにブロックした。
マンセルはほぼ全てのコーナーで攻撃を仕掛けようと試みたが、セナはそれを封じるために必要な、正確な場所にマシンを置いた。
マンセルは最後までオーバーテイクを完了することができず、セナが1992年シーズン最初の勝利を手にしたのだった。
レース後、マンセルは次のように語っている。
私は、アイルトンを褒め称えなければならない。
彼は私がしようとした動きを、本当によく推測したからだ。
彼はとてもフェアだったし、ああする資格があったと思う。
一方でセナにとっては、"ライオンハート" とも呼ばれたマンセルの攻撃的な走りを抑え切ることができたのは、驚きだったようだ。
僕が先頭に立った時、タイヤはもうかなり限界に近かった。
だから、新しいタイヤを履いたナイジェルがすぐに追いついてくると考えていたんだ。
セナはそう語っていたという。
そうすれば、そのリードを保つことができるのか、それは分からなかった。
モナコについての全ての知識を活用しなければいけなかったので、とてもエキサイティングだった。
ナイジェルが、僕を抜くために全てのことをしようとしているのは分かっていた。
そして彼は、サーキットのどこでも速かった。
だから僕は、コーナーのイン側をキープしようとしていた。
ストレートでは、マシンはドラッグレースのマシンの様だった。
2速でも3速でも4速でも、ホイールスピンしてしまうんだ。
でも僕は勝った。
ライオンを飼い慣らすのは気持ちよかったね。
映像からでもヒリヒリと伝わってくる圧倒的な緊迫感。
結果がわかっているにもかかわらず、思わず手に汗を握ってしまう。
抜いてなんぼというレースの世界で、抜けないことが観衆の熱狂を生み出した稀有なレース。
1992年のモナコGPは、間違いなくF1の歴史上最もエキサイティングなレースのひとつである。
今までレースというものに興味がなかった人も是非観て知ってほしい。
こういうレースがあるということを。
なおこのレースは、ミハエル・シューマッハー(ベネトンB192)vsジャン・アレジ(フェラーリF92A)という当時新進気鋭だったドライバー同士の激闘。
そして苦労人ロベルト・モレノが、アンドレアモーダのマシンを唯一決勝まで進めた奮闘など、様々なサイドストーリーがあったレースでもある。
F1黄金期を支えた名曲
派手さこそないが、じわじわと感動が胸に広がっていくようなスケールのデカさを感じる、知る人ぞ知る名曲。
歌詞は「この国では俺たちの心は開かれているんだ」と信じ、夢に向かってのびる果てしなき道を自分の心のままに進む男の旅立ちの心境を表現している。
The miles go by
Like water under the bridge
(橋の下を流れる水のように どこまでも遠く)
Reach for tomorrow
(明日を目指して走るんだ)
With the new sunrise
(新たに昇る朝日とともに)
The road before us
(今この目の前にある道が)
Leading to what we need
(望むものに繋がっている)
Right from the start
(今がスタート地点)
Follow your hearts
(心に従えばいい)
Giving more than we receive
(得るものよりも多くを与えよう)
'Cause in this country
(なぜならこの国では)
Our hearts are open
(俺たちの心は開かれているから)
We are free to try again
(何度でも自由に挑戦できる)
When we see
(道の先が見えていれば)
What will be
Again we believe
(俺たちはまた信じることができるだろう)
You know the road is to tomorrow
(明日へ続く道)
Will you ride along with me again ?
(また一緒に乗って行くかい?)
Give my life for yours
If you only say the word
(その言葉を言ってくれたら この人生をキミに捧げよう)
From the past to the new
(過去から未来へ)
Giving more than you receive
(得るものよりも多くを与えよう)
'Cause in this country...
(なぜなら、この国では...)
本作はもともと1987年に公開されたシルヴェスター・スタローン主演映画『オーバー・ザ・トップ』のサウンドトラックに収録された曲。
だが、日本では1991-1992年にブームが絶頂だったフジテレビ系「F1グランプリ」のエンディングテーマに起用されていた曲でもあるから、日本での本作の人気はほとんどがF1ファンによって支えられていると考えていいだろう。
故に一般的な知名度は低いと思われる。
だが、その反面ではF1黄金期を知るファンからは絶大な支持を得ている。
F1黄金期とはすなわち、アイルトン・セナが活躍した時代である。
だからこそ、セナへ捧げるレクイエムにピッタリの曲ではあるのだが、「この国では俺たちの心は開かれているんだ」という心境とは裏腹に、セナは母国ブラジルGPでなかなか勝てず苦しんでいる。
母国ブラジルGPで劇的な初勝利
セナは母国ブラジルGPで優勝することに熱烈な願望を抱いていた。
1984年にF1デビューしたが、最終的にブラジルで勝利を飾るには1991年まで待たなければならなかった。
それは劇的な勝利となった。
レース中、セナが駆るマクラーレンのマシンはギヤボックスに問題があり、いくつものギヤを失っていたのだ。
それにも関わらずセナはなんとかマシンをかばいながら、ウイリアムズのドライバーであるリカルド・パトレーゼに2.9秒差で打ち勝ったのだ。
フィニッシュラインを超えたセナは、母国優勝の夢を達成したことで歓喜のあまり絶叫した。
だがマシンをコントロールしようと途方もない力を振り絞ったため、彼の筋肉は熱を持ってけいれんを起こしていた。
マシンを停止させた後、セナはほとんど自力で動くことができなかった。
彼は極度の疲労のために身体をマシンから引き出されなければならず、メディカルカーで表彰台に運ばれたのだ。
1994年5月1日
フォーミュラ1(F1世界選手権)において、1988年・1990年・1991年の3度にわたってドライバーズチャンピオンとなったアイルトン・セナは、1994年5月1日、イタリアのイモラ・サーキットで行われた1994年サンマリノグランプリに出場したが、決勝レースにおいて首位を走行中、「タンブレロ」と呼ばれる左コーナーでコンクリートバリアに高速で衝突する事故を起こし、死亡した。
セナのレースはこの日終わった。
同時にF1黄金期も終わりを告げる。
F1界にその後ヒーローが現れなかったわけではない。
シューマッハ、デイモン・ヒル、ハッキネン、バトン、ベッテル、アロンソ、ハミルトン…
数多のヒーローが生まれはしたが、しかし黄金期の熱狂に届きはしなかった。
セナはそれほど大きな存在だったのだ。
セナの死があまりにも辛く、だからF1黄金期を思い出される本作も、次第に聴くことがはばかられるようになっていた。
だが時が過ぎ、あの頃を懐かしむように今本作を聴いている。
長年謎とされてきた事故原因について、ある程度納得できる新証言が公表されたことで、ようやく一区切りつけられたことも心境の変化には十分な理由になった。
現在、F1のみならずレース界全体が盛り上がりに欠けている。
安全性や環境問題など、レースには懸念材料が多く伴う。
化石燃料から電気へとエネルギーを変え、自動車やバイクの持つ存在意義も時代と共に変わりつつある。
だから余計にあの頃が輝いてみえる。
爆音を轟かせサーキットを駆け抜ける色とりどりの音速マシン。
なかでもひときわの存在感を放ったマクラーレン・MP4/4 (McLaren MP4/4)。
全16戦中、イギリスGPを除く15回のポールポジションと、イタリアGPを除く15回の勝利、すべてのレースでどちらかが「完走」を記録。
ワンツーフィニッシュは10回を数え、獲得したコンストラクターズポイントは199点で、2位フェラーリ(65ポイント)の3倍以上のF1史上でも類を見ない記録を打ち立て、アイルトン・セナに自身初のドライバーズタイトルとマクラーレンにコンストラクターズタイトルをもたらした伝説のマシン。
マクラーレン・MP4/4を駆るセナが遺したエキゾーストノートは、今も耳にしっかりと残っている。
When we see
What will be
Again we believe
道の先が見えていれば
俺たちはまた信じることができるだろう
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