今さら聞けない!
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の不思議
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ていて、ふと不思議に思ったことはなかっただろうか。
平氏は平家と呼ぶのに、なぜ源氏は源家と呼ばないのか、と。
聞いてみれば理由は至って簡単なことだ。
学校では教えてくれない歴史の面白さを、少しでも感じとってもらえたら嬉しい。
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「平家」と「源氏」のルーツ
それが臣籍降下した時に名乗ったのが、「平氏」や「源氏」となる。
臣籍降下とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。
賜姓降下とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。
皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁ともいう。
ではそれぞれのルーツはというと、平氏は「桓武平氏(桓武天皇の末裔)」、源氏は「清和源氏(清和天皇の末裔)」ということがよく知られている。
天皇は姓を持っていないので、一族で家臣化した者たちに「平」や「源」の姓を与えたというわけだ。
四大姓(氏)「源平藤橘」の誕生
臣籍降下の結果生まれたのは「平氏」「源氏」の他にも、「藤原氏」「橘氏」という一族がおり、この代表的な四姓を「源平藤橘 (げんぺいとうきつ)」と呼んでいる。
「藤原氏」は大化の改新で功績のあった中臣鎌足を祖に持ち、「橘氏」は飛鳥時代の橘三千代※・橘諸兄親子(皇族)を祖に持つといわれている。
※県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)。
「源平藤橘 」は、後世の有力な武将たちにも大きく関わっていくことになる。
「氏」と「家」の意味は違う
「平」というのは、日本において皇族が臣籍降下するときに名乗る氏のひとつ。
「平氏」とは、その臣下に下った平姓のすべての一族を指す呼び方である。
一方で「平家」とは、多くの平氏の中の特定の一族だけを指す呼び方である。
平氏の中で特定されるといえば平清盛に連なる一族しかいない。
要するに、日本史上「平家」とは平清盛一族だけのことを指しているのだ。
実はこれと同じことが、平氏と同様皇族が臣籍降下した源氏にも当てはまる。
ところが源氏は、「源氏」と呼ぶことはあっても「源家」と呼ぶことはない。
そもそも源氏は中央政界の権力争いの中で藤原氏に負け、保元・平治の乱(1156年・1160年)で平家に負けたために、一族が全国に散らばって各地に土着した。
そのため平清盛一族のように中央に強力な一家が現れず、「源家」は生まれなかったのだ。
全国各地に散らばった平氏は次第に別姓を名乗る
平安時代に平氏が台頭したといっても、京都で貴族となった平氏は実は少数派でしかない。
大多数の平氏は全国に散って、地方の領主となり武士となっていく。
その時に平氏ばかりではややこしいので、それぞれ自分の領地の名前等を苗字とした。
北条や三浦一族も実はみんな平氏であり、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時も正式には平義時といいました。
一方で京都の貴族である平氏は、自分たちこそが本家だと思っているので、平清盛のように平姓のままで別姓を名乗ることはしなかった。
そして、京都で貴族になった平清盛の一族たちだけが平家だったのだ。
平家と聞くと、武士というよりむしろ貴族の印象が強いのはそのためだ。
源平合戦とは源氏vs平氏の争いではない
これまでの説明でもわかる通り、源平合戦で源頼朝の挙兵に従った関東武士の中にも平氏が大勢いた。
もちろん源氏も藤原氏もいたのだが、多くの平氏も従軍していたのだ。
平氏が源氏の大将に従っているのは不思議に感じるかもしれないが、それには源平合戦が「源氏と平氏の戦い」だったという勝手な思い込みがあるからだ。
源平合戦の本当の構図は「関東武士団vs京の中央政府」だった。
関東武士団が伊豆に流罪になっていた源氏の御曹司・源頼朝を、たまたまトップに担いだために「源氏の軍勢」と呼ばれたにすぎない。
そして同じ頃に京都政府のトップに君臨していたのが平家だったために「源平の合戦」と呼ばれただけである。
そのため壇ノ浦の戦いで平家は滅びはしたが、平氏は滅んでいない。
源平合戦で滅びたのは平清盛の一族である平家であり、多くの平氏は各地方に土着し広がりをみせていく。
平家は滅び、平氏が台頭していく
源平合戦戦勝後、源頼朝は鎌倉殿として武家社会のトップとなる。
同時に正二位権大納言に任官した頼朝は、武士であると同時に貴族でもあった。
だが頼朝は別姓を名乗らず、源頼朝のままでいた。
権勢を得たのだから頼朝の一族は源家と名乗ってもよかったのかもしれなかったが、頼朝も彼の息子たちも次々と亡くなり、頼朝の血筋は早々に途絶えてしまう。
その一方で、妻であった北条政子の影響力が次第に強くなり、幕府の中心人物となっていく。
北条氏は平氏の一族であるため、平家が滅んで平氏が栄えるといった、非常に面白い状況になるのであった。
まことしやかに囁かれる源平交代説
武士の世になると、源氏と平氏が交互に政権を担当しているという理論がまことしやかに囁かれるようになる。
これは政権を担当した武士が源氏か平氏の末裔だという考え方で、しかも源平交互になっていることが由来する。
これを源平交代思想、または源平交代説という。
日本史上の武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代するという俗説のことで、室町時代ごろから一部で信じられていたといわれている。
その説を平氏政権以降江戸時代までの、実際の政権の推移に当てはめてみると以下のようになる。
↓
源氏(室町幕府、足利氏)↓
源氏(江戸幕府、徳川氏、源氏を自称)
信長の時代には源平交代思想が一部で信じられていたため、織田信長が平氏を称するようになったことと徳川家康が源氏を称するようになったことも、この思想に関連しているといわれるが真偽のほどは不明である。
関東における源平交代思想
源平交代思想は、豊臣氏という別姓が紛れた中央政権ではなく、関東において特に強く信じられ実行されていたという説。
この場合、家康が封ぜられる前に関東における実権をもっていた勢力は以下の通りである。
後北条氏滅亡後、関東への移封を命ぜられた家康はこの思想の元、源氏に改姓した上で関東に入り、その支配の正当性を示したという可能性もある。
まとめ
平氏とは平姓の一族すべてのことを指し、平家とは平清盛一族のことを指していた。
故に、壇ノ浦で平家は滅びたが平氏が絶えたわけではなかった。
平家の棟梁・平清盛は、よく稀代の悪党のような描かれ方をされるが、果たして本当に悪党だったのだろうか。
教科書では権力に驕り、悪政だろうが望むがままを行なった、唯我独尊の為政者のように記述されているが、実は非常に経済感覚に優れた人物だった。
日宋貿易を推進し、経済の重要性に目をつけた人物は、清盛が日本史上初といっていい。
ちなみに、清盛と同じ経済の目を持っていたのが織田信長である。
二人には共通点が多い。
平清盛とはそれほどの傑物であったのだ、
清盛の唯一の失策といえば福原遷都くらいなもの……いいや、違うか。
福原遷都も失策ではあったが、それ以上の失策がある。
歴史に "もし" はあり得ないが、頼朝を流罪で済ませてしまった甘さこそが、平清盛にとって最大の失策だったのかもしれない。
ちなみに平家が滅んだ後の世では、武家社会の棟梁の証である征夷大将軍の官位には、源氏筋でなくては任官できないような風潮があった。
だからといって、平氏が征夷大将軍になれなかったというわけではなさそうだ。
征夷大将軍に手が届く地位にいた人物の中で、唯一織田信長だけが平氏を名乗った。
三職推認で信長が征夷大将軍の官位を望む可能性は、おおいにあった。
だが残念ながらその答えを出す前に、本能寺の変にて斃れてしまった。
信長がどんな答えを出そうとしていたかは諸説あるが、真実は謎のままである。
教科書では教えてくれない日本史。
遡ってみるとみんな繋がっていく。
これだから歴史は面白い。
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