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ioritorei’s blog

完全趣味の世界

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【大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ】大河で披露された時代考証は最新の研究結果に基づき、古い歴史認識を改める絶好の機会。①

 

 

 

 

大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ

大河ドラマ時代考証は最新の研究結果発表の場

 

 

大河ドラマは古い歴史認識を改める好機①

 

 

大河ドラマでは、我々が教科書で習った歴史認識とは違う描写がしばしば見受けられる。

これは「ドラマ=フィクション」だから、好き勝手に脚色している…というわけではない。

もちろんフィクションの可能性が否定できない場面もたくさんある。

ただそれは、"歴史の空白" にあたる部分に関してのみ。

例えば「諸説ある」なんて事例は、絶好の創作機会。

諸説あるから誰にも真実はわからない。

だからこの "歴史の空白" を、脚本家がドラマチックに脚色できるわけだ。

しかし脚色できない史実もある。

そこで重要になってくるのが時代考証というやつだ。

だいたいは、対象となる時代に造詣が深い学者さんなんかが担当している。

そんな歴史のプロフェッショナルが監修しているにもかかわらず、なぜ我々が教科書で習った歴史認識とは違う描写になるのか?

それは大河ドラマの歴史考証が、最新の研究結果に基づいているからである。

皆さんは歴史は変わらないのお思いだろうか?

否。

歴史は勝者がつくるもの。

故に、勝者に不都合な事実は歴史の闇に消える。

歴史とは真実ではあるが、事実でないものが多く含まれているのだ。

では、なぜ闇に消えた事実が解明されるのか?

それは新事実を記した新たな文献の発見に依るところが大きい。

特に新たな一次資料※の発見は、対象となる時代の研究に大きな影響を与える。

それによって歴史認識が変わってくる。

歴史が変わる。

歴史認識とは不変的なものではなく、常にアップデートされているのだ。

そして大河ドラマこそ、その新しい時代考証を広く世に知らしめる発表の場となっているのだ。

だから大河ドラマは見逃せない。

 

 

※一次資料

 

対象とする時代において制作された工芸品、文書、日記、写本、自伝、録音・録画、その他の情報源を指す。

これはそのテーマに関する大元の情報として利用される。

 

 

 

歴史認識の今と昔

 

 

桶狭間の戦い

 

 

今川義元の上洛説

 

子供の頃、著者は歴史の授業で桶狭間の戦いについてこう学んだ。

駿河の太守・今川義元は上洛のため織田信長が治める尾張を攻めるも、不意を突かれ桶狭間の戦いにて敗れる」、と。

しかし最新(…とはいえ比較的昔から)の歴史考証では、桶狭間は領土争いの結果生じた戦いだとする説が有力である。

今川義元が上洛のため…というのは、後の織田信長の偉業を際立たせるために創作された、ねじ曲げらた歴史といえる。

 

 

今川義元

 

そもそも今川義元のイメージこそ大間違いの元。

桶狭間の敗戦があまりにセンセーショナルだったために、"間抜けで無能な武将" というレッテルを貼られてしまった。

それが大間違い。

桶狭間の戦いの際、我々が想像する憐れに逃げ惑う義元の姿は、おそらく創造の賜物だろう。

実は今川義元は海道一の弓取りと呼ばれるほどの猛将。

桶狭間でも討ち取られまで奮戦し、敵の耳を食いちぎったといわれている。

また政治家としても優秀そのもの。

戦乱の世の当時、法律を文章で発布できたのは今川義元が治める駿河だけ。

為政者としては群を抜いていた。

それが最初で最後にして人生最大のミスのせいで、すべてが書き換えられてしまった。

最新の研究結果では、今川義元に対する誤った認識が覆されている。

喜ばしいことだ。

今川義元こそ、最新の研究結果でその見方が激変した武将のひとりだといえる。

 

 

 

家康の人質時代

 

 

駿河時代

 

家康は駿河で不遇な人質時代を送っていた…。

これも最新の研究結果では、どうやら誤った認識のようである。

家康の人質時代というと、惨めで独りぼっちで寂しくと描かれがちであるが、実際にはそうでなかった。

また、家康(竹千代)は今川義元から邪険に扱われたわけではない。

むしろ、その逆のようだ。

一説によると、今川義元の右腕である禅僧・太原雪斎が竹千代の学問の師匠となったと言われています(ただし家康幼少期の逸話は、江戸時代の編纂物に記されたものが多く、後世の創作の可能性も否めない)。

人質生活と聞くと、暗くジメジメしたイメージがあるかもしれないが、決してそうした面ばかりではなかったのである。

家康(竹千代)は恵まれていたといえるだろうが、これは取りも直さず今川家の品格の高さを示している逸話である。

そして人質=不遇という印象操作が、いかに凡庸で安直で野蛮な発想だったのかを思い知らされる。

光が強いほど濃い影が落ちるというのは、こういうことをいうのだろう。

 

 

尾張時代

 

尾張の人質だった家康は、信長が出会っていたーー。

実はこんな史実はない。

織田家の人質時代」の家康(竹千代)にまつわるエピソードとして、小説やドラマなどではよく織田信長との交流があったかのように描かれている。

信長と家康が兄弟でないのは当然だが、かつて本当の兄弟のように仲良く接していたということがあらゆる作品で強調されている。

信長は天文3年(1534)の生まれであり、家康(竹千代)が尾張にいる頃は、13歳から15歳。

元服し、初陣も果たしている(一方、竹千代は4歳から6歳の頃に尾張の人質となっている)。

信長が家康(竹千代)に会いにいくことは容易だろうが、この頃の2人に交流があったとする史実はないのである。

後に同盟を結ぶことになる両雄。

少年期に知り合っていたとする方が、ドラマチックではあるが、史料はそのことを語ってはいない。

だが裏を返せば、出会っていなかったという史料もない。

事実がどうだったのかは誰にもわからないのだ。

これがいわゆる "歴史の空白" なのである。

 

 

どうする家康 一

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