大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ
本当は凄かった江戸時代
治安がすこぶる良かった江戸の町
徳川将軍家が実質的に日本を支配した260年あまりの期間を、一般に「江戸時代」と呼ぶ。
家康が作り上げた江戸の町は大きな発展を遂げ、それに伴い社会も成熟していった。
そうして迎えた幕末期。
日本には「国際社会から大きく遅れをとった、閉鎖的で進歩がない時代」…そんなイメージが長らくつきまとっていた。
これは明治政府が、打倒した江戸幕府が支配していた時代を「遅れていた」と印象づけたことが強く影響している。
しかし本当にそうだったのか?
幕末日本の真実の実力とは?
治安が良過ぎる江戸のポリスマンはたった24人?
多種多様な職業の人々が暮らしていた江戸だが、実は治安がすこぶる良かった。
犯罪者がひっ捕らえられる「捕物モノ」は時代劇の定番ともいえるテーマ。
『鬼平犯科帳』や『大岡越前』などでは江戸の町に跳梁跋扈する悪人が、正義の役人に退治される様が描かれている。
しかし現実の江戸の様子を忠実に描こうとしたなら、こうしたドラマは作れないだろう。
何故なら、そもそも江戸の町には犯罪者が少なかったからだ。
江戸時代の警察機構をおさらいすると、現代でいう警視総監のような立場にあるのが町奉行。
その下に現場を担当する与力がいて、その与力を補佐する立場にあるのが同心たちだ。
彼らが独自の情報網を構築して捜査網を広げていく。
さらに同心が配下に置いていたのが岡っ引きで、ここからは一般人だ。
彼らの中で、江戸市中を毎日パトロールする役目を担ったのが定町廻り同心。
これが南北奉行所に6人ずつ配置されていた。
さらに退職した元定町廻り同心で組織された、現役をサポートする臨時廻り同心も同じく奉行所に各6人。
つまり人口は数百万、世界一といえる人口密度の高さを誇る江戸の町を、たった24人で巡回していたことになる(数には諸説あり)。
これだけの担当者でまかなえたのは、単純に犯罪が少なかったからだろう。
その理由としては、当時の国際的な風潮と同じく徳川幕府も重刑主義を採用していたことが非常に大きい。
例えば、10両以上盗めば死刑。
放火犯は、点けた火が回って火事を起こせば火あぶり。
これも時代劇などでよくみる、高い位置に磔にした犯罪者の足許に点火するというような、生易しいものではなかった。
背丈ほどの木材に縛りつけ、体全体を薪や茅などでグルグル巻きにして、頭から油をかけて一気に燃やす。
たとえ火がまわらなくても市中引き回しの上、死刑を言い渡された。
江戸の町は火事も名物。
家事には過敏だったからこうした重罪になったのも納得できるが、今と比べてはるかに重い刑罰が待っていたのだから、おいそれと犯罪に手を出せなかったのだろう。
なぜ被害者を救済しない?
現代社会の刑罰は加害者優先
現代社会の刑罰は被害者より加害者が保護されるという、なんとも不可思議なものになっている。
加害者にも人権があることはわかる。
情状酌量したくなる事情もあるだろう。
更生できるのなら、社会復帰を目指すべきことだって理解できる。
ただ、だからといって被害者を蔑ろにしていい理由には、決してならない。
断じて理由してはいけない。
どんな理由があろうと犯罪は犯罪。
それが加害者側の一方的なものなら、なおさら厳罰も辞さない。
そんな毅然とした姿勢を司法がみせない限り、加害者のやったもの勝ち感は永遠に拭えないだろう。
被害者と加害者。
どちらを尊重するのかなんて、問うまでもないだろう。
護られるべきは絶対的に被害者であって、加害者の人権なんぞ比べるべくもない。
現代の司法は人権の尊重を吐き違えてはいないだろうか。
時には非情な見せしめも必要だ。
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