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【教科書では教えてくれない勘違いだらけの日本史】上野にある西郷隆盛の銅像はまったくの別人だった?

 

 

 

 

 

 

 

 

上野にある西郷隆盛銅像

 

西郷隆盛像は、武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828年〈文政11年〉 - 1877年〈明治10年〉)の顕彰を目的として建立された銅像だ。

東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬「ツン」は後藤貞行作)。

鋳造は岡崎雪聲。

台座は塚本靖が設計した。

1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まった。

宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。

除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日に行われる。

以後、この像は「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつ変えつつ、東京タワーや西新宿の高層ビル街と並ぶ、東京の象徴的光景となっている。

連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。

犬が人体と比べてあまりに小さすぎると批判されたことがあるが、兎狩りに用いる薩摩犬は実際小さく、そのままの比率で作るとバランスが悪いと考えた高村の意向により像の犬は実物より大きめに作られたと考えられている。

 

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上野にある西郷隆盛銅像

実ははまったくの別人だった?

 

上野にある西郷隆盛銅像が別人というのは、銅像の除幕式からいわれている。

銅像を別人と言ったのは、西郷隆盛の三番目の妻である西郷糸子だった。

西郷隆盛銅像の除幕式に招かれた西郷糸子は、西郷隆盛像を見て「主人はこのような人ではなかった。」というような言葉を発している。

そしてこの言葉をきっかけとして、上野にある西郷隆盛銅像は別人であるという説が今に至るまで語らることになる。

では、西郷隆盛銅像が別人といわれるのはどの部分なのか。

それは大きくふたつある。

まずひとつは顔。

そして服装だ。

たしかにふたつしか違わないが、こうまでちがと全部違うような気もするが…

どうやら糸子は服装がおかしいといっただけで、顔については特に何も語っていないといわれているが真相は不明だ。

もしかしたら糸子は顔も別人だし、服装もおかしい。

そのように語っていた、あるいは思っていた可能性もある。

 

✔️顔が別人

西郷隆盛西郷糸子の孫である西郷吉之助が昭和39年に雑誌に寄せた記事で、糸子が次のようなことを語っていたことを回想として述べている。
「上野の西郷隆盛銅像は実物よりも威圧的である。本当の西郷隆盛は、歌舞伎役者の中村鴈治郎に似ていて好男子だった。」
また、西郷隆盛銅像を見た板垣退助は、実物と銅像の顔があまりにも違うのに驚いて、洋画家の光永眠雷に改めて西郷隆盛肖像画を描かせ、西郷家にプレゼントしたという話も残っている。
(※この肖像画は現存していないといわれている。)
除幕式での糸子の発言は、服装がおかしいと語っただけという説が有力。
しかしこのふたつの話から、糸子の感想の中には上野の西郷隆盛銅像は服装だけではなく、顔も別人であったという意味が含まれていたという説もあながち否定はできないようだ。

 

✔️服装が別人

西郷糸子は上野の西郷隆盛銅像の服装が特に気に入らなかった。

どうやら、これは間違いないようだ。
糸子がいうには、西郷隆盛は何事にもキチンとしていて威厳のある人だったらしい。

したがって、たとえ外出するにしても着物姿で出ることはなかったという。
後世に残る銅像で、あのような姿を描かれることは西郷隆盛にとっても不本意ではないかと糸子が慮ったのではないだろうか。

 

 

 

西郷隆盛銅像はなぜ別人になってしまったのか

 

✔️西郷隆盛は写真が大嫌いだった

西郷隆盛が亡くなったのは1877年。

上野の西郷隆盛銅像が建立されたのは1898年。

死後、約20年の時を経て西郷隆盛銅像はできあがっている。

よって上野にある西郷隆盛銅像は、西郷隆盛自身と照らし合わせて作られたわけではない。

また実物ではなくても、通常であれば西郷隆盛の写真などを参考に作られるべきところだが、困ったことに西郷隆盛は大の写真嫌いで有名だった。

公式には西郷隆盛の写真は一枚も残されていないとさえいわれている。

西郷隆盛が写真が嫌いだった理由としては、暗殺を恐れたからというもっともらしい理由もあるが、当時流布されていた写真に写ると魂がとられてしまうという風説を、もしかしたら信じていたのかもしれない。

西郷隆盛は旧来の文化や風習を大切にする人物だったようで、西洋文明を基本的には嫌っていたらしい。
根幹にあったそのような思想が西郷隆盛を写真嫌いにしたとも考えられる。
ともあれ、写真が1枚も存在しないということは銅像建立を難しくさせた。

また、西郷隆盛肖像画でさえ描かせなかったといわれている。

 

✔️元になった肖像画がそもそも別人だった

西郷隆盛銅像の原画を作成したのはイタリアの版画家であるキヨッソーネ。
キヨッソーネは明治政府に招かれ、多くの著名人の肖像画を描いている。

西郷隆盛像の元になった肖像画もキヨッソーネの手によるものだが、困ったことに参考とする写真が1枚も残っていない。
そこで登場するのが、西郷従道大山巌だ。

西郷従道西郷隆盛の弟、大山巌西郷隆盛の従兄弟にあたる。

西郷隆盛に非常に近い親族ということになる。

当然西郷隆盛と共通する、もしくは似ている部分が多かっただろう。

このふたりをモデルにして作成されたのが西郷隆盛肖像画だ。

西郷隆盛像の元になった肖像画は、いうなれば指名手配のモンタージュのようなもの。

だから西郷隆盛像が似ていないと断言することはできないが、これが本人だと断言することもできないのだ。

別人をモデルにしているのだから、当然といえば当然といえる。

 

✔️高村光雲も悩みながら作成?

キヨッソーネの原画に基づいて、高村光雲西郷隆盛銅像の作成に取り掛かる。
しかし別人をモデルにした肖像画では、顔のイメージをはっきりとつかむことはできない。

また、肖像画だけではいったいどんな体型だったのかもわからない。

高村光雲は様々な人の意見を聞いて何とか銅像を作成したようだが、結果的には実物よりも険しい顔つきの太った西郷隆盛が出来上がったといわれている。

 

 

 

 

西郷隆盛という名は本名ではなかった

 

あまり知られてないが、そもそもこの人は西郷隆盛という名ではない。

本名は西郷隆永(たかなが)。

吉之助や南洲でもよい。

本物の西郷隆盛は、西郷隆盛の父親…

いや、ややこしいな。

西郷隆盛は、元々は吉之助の父親の本名だ。

間違って父親の本名が登録されてしまい、大人の事情もあってそのまま使い続けたというのが真相らしい。

これも教科書では教えてくれない、勘違いだらけの日本史。

こういう授業なら学生時代にもっと勉強したんだろうな。

 

 

 

 

 

 

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