2027年大河ドラマ
逆賊の幕臣
本当に面白い「幕末」は幕臣側の歴史に在り!維新史に埋もれた偉人・小栗忠順
主人公・小栗忠順役は松坂桃李
第66作は幕末史の "ウラ側" に迫ります!
主人公は 幕臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)。
"勝海舟のライバル" と言われた男。
日本初の遣米使節となって新時代の文明を体感し新しい国のかたちをデザインした江戸幕府の天才。
だが明治新政府に「逆賊」とされ歴史の闇に葬られた忘れられた歴史の "敗者"=幕臣の知られざる活躍を描くスリリングな胸熱エンターテインメント!
小栗忠順
禄高2,500石の旗本・小栗忠高の嫡子。
幼少期は周囲から悪戯好きなうつけ者扱いすらされたが、8歳で小栗屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門してからは才能が開花し14歳頃には威風堂々たる人物になっており煙管で煙草を吸いながら議論を行ったという。栗本鋤雲とはこの頃からの知り合いである。
ちなみに見山楼には吉田松陰・高杉晋作・清河八郎・前島密らも学んでいる。
勉学のみならず武芸の達人でもあり剣術は直心影流免許皆伝を許され柔術も修めた。
他には砲術や兵学を修め、砲術を学んでいた頃から開国論に興味を抱くようになった。
10代半ばにしてその文武両道ぶりを注目され17歳になった天保14年(1843年)に登城した。
若くして両御番となる。
しかし、あまりに率直過ぎる物言いを上に疎まれては免職させられるも才幹を惜しまれては復職を繰り返した。
28歳の時、父を誤診により失い小栗又一家※1の家督を継いだ。
30歳で御遣番となる。
以後、遣米使節の監察、外国奉行、勘定奉行、南町奉行、軍艦奉行を歴任。
ちなみに斬首に処されるまでの10年間で何度も要職を務めては辞めてを繰り返している。
しかし、薩長軍に追討令を出され、捕縛され斬首に処された。
享年42歳。
近年その類稀なる外交能力や内政実務能力が評価され、「坂本龍馬がいなくても幕末は語れるが、小栗忠順がいないと幕末は語れない」とまで豪語する学者まで現れるほどである。
攘夷志士や薩長の史観ではなく、江戸幕府から見た史観では偉人であり、小説家の司馬遼太郎先生は著書において「明治の父」と絶賛した。
そもそも明治政府が行った近代化政策は、江戸幕府の時点で忠順も唱えていた。
問題は、旧態依然が著しい江戸幕府にはそれを行える力がなく、それには忠順自身も「一言で国を滅ぼす言葉はどうにかなろうの一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」と嘆いている。
また、戦術家としても優れていたようで徳川慶喜が恭順を決めた為に実行されなかったが薩長への徹底抗戦を訴えた際には「箱根の隘路に陣を構え敵の足を止めている間に東海道の敵の本隊を駿河湾から艦砲射撃で攻撃する」という作戦を立案しており、戦後にそれを聞いた大村益次郎は「小栗豊後守の策が実行されていたならば、我々の首は今ここになかったであろう」と述べたとする逸話がある。
一方で、同じ幕臣であった勝海舟には「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とかなり厳しい評価をされている。
これは、戊辰戦争において江戸開城の恭順派であった勝と主戦派であった忠順の対立が含まれていると思われる。
大隈重信は忠順を高く評価していたが、大隈の後妻の綾子の実家の三枝家は小栗家の親戚であり、綾子自身も忠順の父・忠高の世話になったことがある。
東郷平八郎は日露戦争後、自宅に国子と結婚し小栗家を相続した貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい※2」と礼を述べたという。
※1.小栗又一家
忠順の通称の「又一」は吉忠の嫡子・忠政が合戦の度に一番槍を挙げたことを家康から賞され与えられたものであり忠政直系の子孫は小栗又一家とも呼ばれる。
維新史に埋もれた偉人・小栗忠順
小栗忠順ってどんな人?
日本海軍の本当の生みの親
一般に「日本海軍の生みの親」と呼ばれる人物は2人存在する。
ひとりは3回も海軍大臣を経験し、日清・日露の大海戦を帝国海軍の完勝に導いた薩摩藩出身の山本権兵衛。
もうひとりは権兵衛も学んだ海軍操練所の創設者で、幕末期に数々の人材を育てた勝海舟。
しかし他に、本当の意味で「帝国海軍を生んだ」といえる人物がいた。
それが横須賀造船所計画を立てた小栗忠順である。
1864(元治元)年、勘定奉行になった忠順はフランス公使ロッシュと相談し、国の行く末を左右する巨大なプロジェクトに着手する。
それが横須賀造船所の建設計画だった。
造船所といっても船を造るだけの工場を建てるのではない。
最新の西洋知識を研究・吸収する教育機関や最先端ねか製鉄所、海軍施設等々…。
そういったものを敷地内や周辺地域に収める、今でいう軍事科学研究都市を作ろうとしていたのだ。
忠順の構想は細部に至るまで近代的だった。
まずライン部門とスタッフ部門を切り離し、経理には複式簿記を導入し、人材の登用は能力第一主義。
経営面でも収益を出すことを重要視し、コスト意識の徹底を図るつもりだった。
どれもこれも、実現していたら日本初の試みばかりだった。
しかし残念なことに、志半ばで大政奉還によって幕府は崩壊。
計画が実現することはなかった。
維新後、施設はすでに発注済みだった洋式軍艦ともども新政府が接収。
忠順の計画そのままに、横須賀造船所計画は明治になっても進められたのだ。
やがて完成した造船所は横須賀海軍工廠(よこすかかいぐんこうしょう)に発展し、日清・日露の大戦の勝利に貢献することになる。
しかし忠順は帝国海軍の成長した姿を見ることは叶わなかった。
時は経ち1905(明治38)年、日本海海戦で完勝し日露戦争の勝利を決定付けた当時の連合艦隊総司令官・東郷平八郎は戦後に忠順の遺族を自宅に招き、こう語った。
※2.日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である。
小栗忠順ってどんな人?
日本初の国際経済交渉
小栗忠順は、幼少の頃こそ悪童として名を馳せていたものの、成長するにつれ抜きん出た文武の才をみせ始める。
そして歯に衣着せぬ物言いで上役と衝突しながらも、幕府で順調に出世していく。
そんな忠順がかねてより懸念していたのが、通貨の交換比率であった。
開国当初の日本は、国際的な相場とは異なる、はるかに金の値打ちが安く設定された金銀交換相場を用いていたことから、金(小判)の海外流出※3と、その副作用ともいえる急激なインフレに悩まされていた。
正確な史料はないが、当時流出した小判は軽く1,000万両を超えていたとされる。
忠順は早くからその事態を重くみており、なるべく早く相場の是正をしなければならないと考えていた。
そのチャンスはやがて訪れる。
1859(安政6)年、日米通商修好条約の本書調印を目的とした遣米使節の正使として、アメリカを訪問することになったのだ。
アメリカに渡った忠順は持参した天秤などを用いて、日本の小判とアメリカが使うメキシコドル金貨の金の含有率、その他の金属の含有率を詳しく調べて、金貨の重さではなく、含まれる金銀の量によって相場を決めるべきだと主張。
これは日本初の国際経済交渉ともいえるもので、あまりに細かい条件や要求を次々と突きつけたものだから、アメリカ側が辟易するほどだった。
しかし経済の本質を見極めた忠順の弁論の鋭さは、アメリカの日本を見る目をも変えた。
結果は忠順の主張が通って交渉は成立。
忠順がアメリカ滞在中、彼の動向を現地紙が追うほどの評価を得て、その聡明ぶりは各地で絶賛された。
アメリカでの大役を終えた忠順は、様々な船を乗り継いで地球を一周してから帰国した。
世界を見聞した忠順の見識はさらに磨かれる。
1967(慶応3)年、忠順は日本初の株式会社の設立案を提出する。
名を兵庫商社。
資本力が不足している日本商人が海外の企業と戦えるようにするには、大資本の商社が必要だったのである。
設立資金100万両は大坂の有力商人から出資させたものだった。
なお一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは忠順とされる。
忠順は他にも日本初の本格的ホテルの建設を手がけている。
建設したのは清水喜助(清水建設創業者)で、築地ホテル館と名付けられた。
※3.金(小判)の海外流出
貿易をせずとも通貨を交換するだけで大儲けできるとあって、多くの在留外国人はこの錬金術に夢中になった。
アメリカ公使であるハリスも、これで利を得ている。
イギリス領事オールコックはこの状況を、狂乱状態と表現している。
小栗忠順ってどんな人?
小栗埋蔵金伝説
維新後、新政府は幕府の御納戸金を資金源としておおいに期待していた。
御納戸金というのは、家康以来江戸城内の御金蔵に蓄えられてきた大量の金をいう。
一旦有事の際に備えたもので、整形された金塊だったと伝えられている。
小判に換算すれば、何百万両ぐらいだったのか。
その辺もはっきりしないのだが、とにかく巨額の軍資金だったことは間違いない。
その御納戸金を狙っていたのは官軍と彰義隊だった。
特に無一文で討幕戦を始めた官軍は、それこそ喉から手が出るほど欲しがっていた。
だが官軍が江戸城に入った時、御金蔵は空っぽだった。
御納戸金が忽然と消えたのだ。
御金蔵の鍵は、勘定奉行勝手方が管理していた。
つまり勘定奉行を解任されたその時まで、忠順の手にあったのだ。
当然、忠順に疑いが及ぶが、ついに埋蔵金は発見されなかった。
こうして出来上がったのが、小栗埋蔵金伝説である。
以後、トレジャーハンターやテレビ番組関係者が血眼になって探しまわるものの、これといった物証は未だ見つからずにいる。
しかし不思議なのは、消えた御納戸金について官軍が憤ったり、真相を追及した様子がまったく無いことだ。
それは記録にも残っている。
御納戸金はいったいどこへ消えたのか。
なぜ官軍は憤らなかったのか。
何も語らなかった忠順の潔い死に際からは、それが幕府のためにあえてかぶった濡れ衣だったと思えてならない。
小栗忠順ってどんな人?
維新史に埋もれた偉人の潔すぎる最期
戊辰戦争で徳川慶喜に徹底抗戦を主張したことが仇となってか、忠順は幕府の要職を解かれることになる。
1868(慶応4)年、老中より罷免を申し渡されると忠順は所領のひとつだった上州権田村に別邸を建て、家族や家臣とともに隠棲する。
慶応4年3月のことだった。
隠棲中もアメリカへの亡命を勧められたり、彰義隊の隊長に推されるものの丁重に断ったという。
そして4月、突如として新政府軍が現れ忠順を捕縛。
「農兵を訓練していた」「徳川の埋蔵金を隠した」ことを罪に問われたとされるが、一切の証拠はなかった。
ろくな取り調べもないまま、水沼河原に引き出される忠順。
無実を叫ぶ家臣を「お静かに」と諭すと、遺された婦女子の面倒を頼み、一切の弁明もなく斬首された。
享年42歳。
維新史に埋もれた偉人の潔すぎる最期であった。
本当に面白い「幕末」は幕臣側の歴史に在り
いわゆる「幕末」といわれる維新史。
史上稀に見る激動期である「幕末」は、日本史の中でも抜群の人気を誇る。
その人気を牽引しているのが、おそらく新選組と坂本龍馬ではなかろうか。
新選組は隊士のほとんどが農民の出にもかかわらず、 徳川幕府の後ろ盾を得て滅びゆく幕府と運命を共にした悲劇のヒーロー。
坂本龍馬は地方の下級武士でありながら、江戸幕府という絶対的な政権を崩壊へと導いた英傑。
どちらも歴史ファンのみならず、広く一般に人気を博している。
それはひとえに日本人が好む判官贔屓に起因しているのだろう。
新選組も坂本龍馬も小身から大事を成し、若くしてその命を散らしている。
これだけ聞けば、たしかに魅力的なキャラクターではある。
だが勝者によって脚色された歴史には、面白みこそあれリアリティには少々欠ける。
新選組の実態や坂本龍馬の正体を知れば、いかに偶像化されていたかがよくわかるというもの。
ならばと思い立って調べてみたのが、明治政府によって悪役に仕立て上げられた幕臣側の偉人の逸話である。
小栗忠順と並び幕末三俊と顕彰され、列強との交渉に尽力した幕臣で外交官の岩瀬忠震、水野忠徳。
安政の大獄を断行し悪役の代名詞にされた井伊直弼等々、調べてみるとこれがすこぶる面白い。
「幕府は無能だった」という明治政府の喧伝を、教育によって信じ込まされている人にとっては、どれもこれも目から鱗の話ばかり。
では彼らは本当に無能だったのか。
それとも明治政府は嘘をついていたのか。
彼らが明治政府によって悪役とされた事実が、今となっては彼らの優秀さを物語る。
歴史とは皮肉なものである。
特に明治維新については、政府の喧伝が酷い。
だからこそ、本当に面白い「幕末」は幕臣側の歴史にこそ在る。
歴史の真実に近づきたいなら、歴史の敗者にこそ学ぶべきなのである。
小栗上野介(主戦派)VS勝海舟(恭順派)―幕府サイドから見た幕末―
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