坂本龍馬にはファンが多い。
時代が欲したかのようなタイミングで世に現れ大仕事を成し遂げる。
誰も成し得なかった偉業を成し遂げると、まるで自分の役割は終わったといわんばかりに突然この世から居なくなってしまう。
短くも濃密な波瀾万丈の坂本龍馬の人生は魅力に溢れている。
坂本龍馬とは
坂本龍馬は幕末維新期最高のヒーローといえる。
どんなに歴史に疎い人でも有名なあの肖像写真を知らない日本人は皆無と言ってもいい。
郷里・土佐藩を脱藩し、当代一流の著名人たちとことごとく親交を結び、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を和解させることに成功。
狭く封建的な日本にとらわれず、自由な世界の海援隊を夢みながら志半ばで凶刃に倒れこの世を去った。
いやはや、誰がみてもドラマチックかつ悲劇のヒーローではないか。
しかしだ。
龍馬ファンには大変申し訳ないのだが、坂本龍馬の英雄譚の数々には疑問符がつくものや眉唾物が多いことをご存知だろうか。
何から何まで小説が元ネタ?
今も定説扱いされている龍馬の事績の数々は1883(明治16)年に公表された新聞の連載小説がネタ元になっている。
坂崎紫瀾というジャーナリストが「土陽新聞」に発表し、後に単行本化されてヒットした『天下無双人傑海南第一伝奇 汗血千里駒』がそれである。
タイトルからもわかるように龍馬を顕彰しようとして書かれた伝記風の小説だ。
実はこの時まで坂本龍馬なんて名前は明治政府関係者たちの心の中にあるだけで、歴史的な英雄だとは認識されていなかった。
明治政府は早い時期に龍馬を顕彰していたものの、一般市民にとってはまったく無名な人物だったのだ。
世に広くその名が知られ始めるのは1887(明治20)年あたりから。
連載小説がスタートした当時は自由民権運動が盛んな時期だった。
龍馬と同郷で運動の旗手であった板垣退助は、忘れられた郷土の英雄をプロパガンダに活用することを思いつく。
板垣退助は『自分が今あるのは龍馬のおかげ』と、しきりに喧伝するようになるのだ。
それまで龍馬について言及することなどなかったのに。
しかしおかげでこの時、ようやく坂本龍馬という名が世間に知られることになる。
以後、日本海軍の創設もデモクラシー思想もすべて『龍馬が初めて考えたり作ったりしたもの』ということになっていった。
その後は10年ほどの周期でブームが起きて現在に至る。
ちなみに前述した小説は、かの歴史小説の大家である司馬遼太郎大先生が《竜馬がゆく》執筆時におおいに参考にしたという。
坂本龍馬はスパイ?
坂本龍馬が小説の中で偉人になれたのには理由がある。
龍馬はフットワークが軽かった。
しかも脱藩浪士だから藩同士のいざこざや上司の意向にとらわれない自由さがあった。
しかも当代一流の著名人とコネクションを持つ。
遠隔地にいる者同士を取り持つ連絡係、いわばスパイとしてこれ以上ない最適の人物であった。
Aという人物から聞いた話をBに話し、Bの意見をCへ。
このように歩くネットワークの役割をこなしていたのは確かだ。
そうこうしているうちに、やがて龍馬が語るアイデアは聞く側にとって、まるで龍馬が考え出したもののように受け取られることも多くなる。
こうして本人も知らぬ間に龍馬の手柄が急増していったと考えられる。
坂本龍馬の実像
例えば龍馬を語る上で欠かせない海援隊と陸援隊。
龍馬は海援隊の隊長になっただけで、設立構想も隊規も考案したのは土佐藩の福岡孝弟だ。
龍馬が先進的な思想の持ち主だったことの証明とされている大政奉還後の新政府構想は、実は長州藩の尾崎三良が龍馬に書き示したものだ。
映画やドラマなどで暗殺直前の龍馬が誇らし気に書き上げる船中八策。
船中八策とは新しい日本の政治体制を示したものだが、ここにある議政局はもともとヨーロッパの政体ですでに日本でも知られていた。
しかもその議会制度を龍馬に教えたのは幕臣・大久保忠寛だし、横井小楠や西周らがすでに幕府へ提案済みであった。
薩長同盟が成り土佐藩仲介のもと、薩摩藩経由で長州藩が購入した軍艦・ユニオン号にしても、大きな働きをしたのは上杉宗次郎だ。
文久年間を中心に今日知られている龍馬の京都での足取りは、龍馬の後年の妻であるお龍による回顧が中心だから、どこまで本当なのか判然としない。
いつでも都合良く紹介状がもらえて、とんとん拍子で広がっていく人脈。
住所不定で活動内容までもが未詳の時期が多い。
華々しい伝記に彩られていながら、よくわからないことが多いというのが坂本龍馬の実像なのだ。
坂本龍馬暗殺事件
先の記事に少し記したが、改めて坂本龍馬暗殺についてしっかり書いておく。
歴史的にわりと現代に近い時期に起きた事件だけに、現存する史料も多い。
しかしそれがかえって真相究明を困難にしているともいえる。
何故なら歴史は勝者によって作られるからであり、残された史料類がすべて真実を伝えているとは限らないからだ。
最初に疑われたのは新撰組だった。
この当時、龍馬が幕府側につけ狙われていたのは確かだ。
坂本龍馬は政治犯のイメージが強いが、過去幕吏に囲まれた際に傷害致死事件も起こしている。
幕府側がつけ狙う理由は十分にあった。
襲撃の第一報に触れたほとんどの者が新撰組の仕業だと信じて疑わなかったほどだ。
よく間違われますが、坂本龍馬氏の暗殺に新選組は無関係です。#風評被害#歴史探偵#土方のスマホ pic.twitter.com/5ovfD1fRfz
— スマホを持ってる土方歳三@NHK土方のスマホ (@nhk_hijikata) 2021年10月13日
新撰組が疑われる理由は他にもある
龍馬を襲った刺客たちは二階に鞘を一本残し、階下の土間に下駄を残していった。
下駄には先斗町の瓢亭という茶屋の焼き印が押してあったのだが、この店は新撰組の者たちが出入りすることで知られていた。
残された鞘についても証言者が現れる。
現場に残された慰留品の数々と証言は、不自然なくらい新選組に関するものばかりだった。
上記の証拠はすべて新撰組が真犯人だと示している。
しかし龍馬暗殺に関する情報は他にもある。
簡単に書き出してみよう。
・龍馬暗殺の実行犯は剣術の凄腕でかつ左利きと推測されている。
・伊東甲子太郎一派には新撰組・近藤側のスパイである斉藤一が同行していた。
・斉藤一は三番隊組長を務めるほどの凄腕でかつ左利き。
・伊東甲子太郎も斉藤一も元新選組の人間だから、濡れ衣を着せるために必要な情報及び新選組に関するアイテムが容易に手に入る。
・坂本龍馬暗殺のわずか3日後、伊東甲子太郎は新選組の手によって粛清されている。
・かろうじて粛正を逃れた伊東甲子太郎一派残党は薩摩藩邸へ逃げ込んだ。
・伊東甲子太郎が粛清されてすぐ、一時的だが斉藤一は姿を晦ましている。
・倒幕ではなく討幕したい薩摩藩(西郷隆盛)にとって、徳川家を中央政権に残した坂本龍馬の新政府案が気に入らなかった。
・坂本龍馬が建白した(といわれているが原案は別人)大政奉還によって、薩摩藩は一度討幕の機運を逸している。
個人的な予想だが、著者は坂本龍馬暗殺の実行犯は伊東甲子太郎一派だと推測している。
もし黒幕が存在するとしたら討幕派の薩摩藩か。
伊東甲子太郎一派が手土産に坂本龍馬の首を差し出したと考えるのが自然の流れのように思えてならない。
後年、自分が真犯人だと名乗り出た人間がいるにはいるがこれについては売名行為だろう。
だとしても、だ。
いつでも都合良く紹介状がもらえて、とんとん拍子で広がっていく人脈。
住所不定で活動内容までもが未詳の時期が多い。
華々しい伝記に彩られていながら、よくわからないことが多い。
狭く封建的な日本にとらわれず、自由な世界の海援隊を夢みながら志半ばで凶刃に倒れこの世を去った。
そういう人間をなんというか知っているか?
ヒーローだよ。
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