大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ
東京の街はこうして作られた!
すべてのルーツは家康にあり
徳川家康が開拓し江戸幕府が開かれるまで
世界一の人口を誇る東京は、徳川家康が江戸に入って町づくりを始めたときに遡る新しい町。
家康の町づくりの跡を追うと、現在の東京が見えてくる。
江戸の町づくりを早々に命じた徳川家康
天正18(1590)年、豊臣秀吉は後北条氏の小田原城を陥落させ、天下統一に成功する。
秀吉は、小田原城攻めに功労のあった徳川家康に、それまで後北条氏の所領だった関東8か国(関八州)を与え、家康はこの領地替えに応じることになる。
家康は早速江戸城に入り、江戸城で政治を司ることを見越して、町づくりの基礎をつくるよう家臣に命じる。
江戸の町が作られる前の環境
当時の江戸城は、太田道灌が支配していた頃の地形と変わらず、江戸城の近くまで日比谷の入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だった。
道灌が築いた江戸城は、家康が移り住むまでは小さな城にしかすぎず、江戸湾沿いには多くの汐入地が点在し、満潮になると海水が入り込んでいた。
一方、城の背後の土地は原野が広がり、平坦な土地も少なかったのだが、逆に家康は土地改造の余地が大きく、開発によっては広大な領地を手にすることになると考え、壮大な都市計画を描いて江戸の町づくりに着手する。
江戸の町づくりに欠かせなかった河川工事
家康が江戸に入る前に家臣に命じたのは、飲料水の確保だった。
文禄元(1592)年、江戸城の飲料水確保のため、麹町方面から流れていた自然の河川を堰き止め、貯水池を造ることを命じている。
これが現在の千鳥ヶ淵である。
江戸城内の水は塩分が抜けきらず、飲料水としては不適だったため、次に着手したのは、数々の河川工事だった。
江戸は低地ゆえに、水害に弱く、たびたび洪水に悩まされていた。
そこで、平川と小石川をひとつにまとめ、道三堀を造り、隅田川と結ぶことで江戸への生活物資の輸送路を確保した。
道三堀の起点は現在の和田倉門近くで、ここから道三堀を経由し平川(現在の日本橋川)に合流する。
生活物資を千葉方面から江戸に運ぶルートとして開発したのが小名木川である。
小名木川を通って行徳から塩を運んだ。
後述するが、これら運河は城を中心とした右渦巻き状の構造とも符号している。
運河は外に向かって広がり、濠を築くことで敵からの攻撃を防ぐ役割も果たしている。
江戸の町は河川工事による埋め立てで作られた
江戸城建設のため、大量の物資を外から調達しなくてはならない。
そのためには、江戸湾に面して広がっていた湿地帯を埋め立て、海岸線を整え船着き場を建設する必要があったため、人工河川の開削で得た大量の土砂は湾の埋め立てに利用された。
神田山(神田駿河台)を切り崩した土砂を利用して日比谷入江を埋め立てて町を海側に拡大する工事も行い、これは家康亡き後の歴代の徳川将軍に引き継がれていく。
江戸の町づくりの都市計画
家康が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは慶長8(1603)年。
以後、天下普請と呼ばれる、全国の大名に大がかりな工事を課して、城を中心にした江戸の町が短時間で完成する。
屋敷配分では、江戸城の北西側の高台の多くは家臣に配分し、城の東南側の低地を町人地とした。
この棲み分けは現在の山の手、下町の原型に繋がっている。
江戸の都市計画は家康によってなされ、3代将軍・家光の時代にほぼ完成したといわれている。
東京の基となる画期的かつ天才的な発想
江戸城を中心に「のノ字」に都市開発
江戸城の内部も渦郭式という「のノ字」型になっており、城を中心に時計回りで町が拡大していった。
面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例しており、外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えていく。
つまり、町がどんどん外縁へと広がり、無限に成長していくように設計されていたのだ。
この「のノ字」型の町割は、他にもいろいろな利点があった。
- 敵が容易に城に近づけないので攻められにくい。
- 火災の類焼を防げる。
- 物資を船で内陸まで運搬できる。
- 開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる。
などが挙げられる。
江戸では平城京や平安京のような方形の条坊制を採らず、螺旋状に発展する機能性に富んだ町づくりを行なったのだ。
これは画期的かつ天才的な発想であった。
水路と首都高速道路
あまり知られていないが、実は首都高速道路も家康が作ったと言っても過言ではない。
江戸は「水の都」で家康が江戸発展のためにつくった水路の上に首都高速がつくられている。
自動車もなかった江戸において、家康は効率よく荷物を運ぶために水路へ発展させ、一度に大量に運べる仕組みをつくった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの時に首都高速は作られたが、住んでいる人をどかせなかったため水路の上に作ったのだ。
これにより土地を買収する必要もなかったのは言うまでもない。
首都高速がぐねぐね曲がっているのは水路だった名残りなのである。
東京にも江戸の名残りが…
江戸時代から続く地名の数々
東京にはいろいろな地名がある。
その中にはこれまで東京が歩んできた、歴史の名残が垣間見えるものがある。
今は東京と呼ばれるこの地に大きな変化が起こった江戸時代、家康による計画的な街づくりによって、今の東京の原型が作られた。
そのため、東京には江戸時代を起こりとする地名が多く残されている。
例えば「江戸」という名前。
当時入江であった江戸の地形そのものを表しているという説がある。
江戸時代、日比谷は海だった。
そこには日比谷入江と呼ばれる入江があった。
江戸=「入江の戸」、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であったことが江戸の起こりとされている。
そのほかにも江戸時代の米蔵があったことからついた蔵前、甲州街道の宿場であった内藤新宿からついた新宿、など、東京の地名には其処彼処に江戸の名残りを感じることができるのだ。
御徒町
駅名。
御徒組の組屋敷があったことから。
御徒組は、徳川家直参の役職。
将軍外出時などの道路警備が仕事。
御茶ノ水
この地にあった高林寺という寺の境内から湧き出す水が将軍のお茶の水として利用されたことから。
神田川の掘削工事の際、本郷台地より湧き出したものと考えられる。
紀尾井町
紀尾井坂の名前に由来する。
紀尾井坂の江戸時代における正式名称は「清水坂」と呼ばれていた。
この坂の名の由来は、江戸幕府を支えた三つの藩の江戸屋敷があったことから、その藩の名の一文字をとったことによる。
つまり、紀州藩徳川家の「紀」、尾張藩徳川家の「尾」、彦根藩井伊家の「井」だ。
坂の名前は江戸時代からあったが、町名になったのは明治になってから。
明治維新後に新しい町名を名付けるときに紀尾井坂の愛称から決められたものである。
また、これらの大名の城下町だった和歌山・名古屋・彦根の3都市をまとめて「紀尾井」と呼ぶこともある。
木場
江戸時代、この辺りに置かれていた木置場(貯木場)から来た地名。
鉄砲洲
幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この地にあった隅田川の砂州上で大筒の稽古を行っていたという説と、砂州の形が鉄砲に似ている事からついたという説がある。
半蔵門
駅名として。
服部半蔵率いる伊賀同心組が江戸城における搦手門(有事の際の逃亡のための門)の警護を行ったことが由来。
百人町
将軍直轄の軍団である、鉄砲百人組の同心(与力の下の身分の下級役人)たちの組屋敷があったことから。
丸の内
江戸城の城内であったことから。
丸の内の「丸」は、本丸、二の丸、三の丸など、城を構成する区画のこと。
八重洲
ヤン・ヨーステン(耶揚子)の居住地であった耶揚子河岸が由来。
「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。
和田倉門外のあたりにあったが、東京駅の発展とともに現在の位置に地名が受け継がれる。
オランダの航海士、朱印船貿易家。
日本名は耶揚子(やようす)。
「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である。
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年(慶長5年)4月19日、豊後に漂着した。
有楽町
慶長年間(1596年~1615年)に織田信長の弟、有楽斎の屋敷があり、その後寛永年間(1624年~1644年)には空き地となっていたところを人々が「有楽の原、有楽原」と呼んでいたことに由来。
明治五年、有楽町という地名が誕生。
(諸説あり)
例に挙げたこれらはほんの一部。
江戸の名残りを感じられる地名は、東京のいたるところに存在する。
今、自分が住んでいる場所の名に、どんな由来があるのかを調べてみるのも面白いかもしれない。
江戸の発展を仕組んだのは天海?
黒衣の宰相・南光坊天海
江戸といえば、やはり「徳川家康」のイメージが強い。
歴史に詳しい方であれば、「室町時代の武将の太田道灌」、あるいは「鎌倉時代以前にいた江戸氏」と答えるだろう。
では「江戸発展の礎を築いたのは誰でしょうか?」という問いならどうだろう。
いろいろな回答がありそうだが、やはり一番有力な答えは、江戸に幕府を開いた「徳川家康」だろう。
とはいえ、江戸の町は家康の力だけでできたわけではなく、その陰には、多くの人の智恵や労力があったことは言うまでもない。
その中でもとりわけある人物こそが、江戸の町が発展するように「仕組んだ張本人」である可能性が高い。
前述した通り、江戸の町は天正18(1590)年の徳川家康の入封によって整備され始めた。
その頃、江戸城のまわりは湿地だらけで、城といっても石垣などはなく、竹が茂る荒れ果てた状態だったという。
しかし、家康はそんな関東の片田舎に過ぎなかった土地に本拠を置き、開発を進めた。
江戸城のまわりに堀をめぐらし、その土砂で湿地を埋め立て、さらには東海道などの五街道を整備して、江戸に人や物が流入するようにしていった。
そして、このような町づくりを進めるにあたって、家康に助言を与える人物がいた。
宗教政策担当のブレーンとして活躍した天台僧、南光坊天海である。
実は彼こそが、江戸の発展を仕組んだ張本人だった。
天海は多くの謎に包まれた人物で、詳しい出自は不明。
一説では天文5(1536)年に会津の蘆名氏の一族として生まれたとも、明智光秀の後身ではないかとも言われている。
108歳という長命で、3代将軍・家光にも仕えた(134歳まで生きたという説もあり)。
若き日に随風と号し、下野国粉河寺で天台宗を学んだ天海は、その後、比叡山延暦寺をはじめ、各地の寺で学を深めている。
そして、武田信玄や蘆名盛氏の招聘を受けてその元に赴いた後、天正16(1588)年に武蔵国川越の無量寿寺北院(現存の喜多院)へと移った。
やがて天台宗における関東の実力者となった天海は、家康の信頼を得て参謀として仕え、江戸の町づくりを担うことになる。
江戸城と堀の設計の実務面では、築城の名手であった藤堂高虎らが中心となり、天海は思想・宗教的な面で「陰の設計者」として関わっている。
工事が完成するのは寛永17(1640)年の家光時代で、その時すでに家康も藤堂高虎も他界しているが、天海はなお存命しており、50年近い江戸の都市計画の初期から完成まで関わったのだった。
恐るべき家康の先見性
秀吉によって命じられた江戸転封
天下人の座を狙う秀吉にとって、強大な軍事力を持つ家康は脅威だった。
事実、小牧長久手の戦いで秀吉は手痛い目にあっている。
秀吉のなりふり構わない懐柔工作によって臣従することになるが、これも家康の計算のうち。
現政権のNo.2が次世代政権を担う道理を、家康は知っていた。
さて、その家康も小田原攻めが終わり、秀吉から北条氏の旧領だった関東への移封を命じられる。
この移封は、家康を京・大阪に近い土地から箱根の険の東に追いやることにより、関東への封じ込めが狙いだった。
また本領である三河・遠江はもとより、後に得た駿河の経営が順調だった家康の経済力を削ぐ狙いがあったといわれている。
一所懸命が信条の武士にとって、移封命令は受け入れ難い命令である。
特に三河武士は土着性が強い。
戦も辞さず、と憤った家臣も多くいただろう。
だが家康は家臣団を丸め込み、この移封を快諾している。
そこには後の江戸の発展を暗示するような、家康の先見性が見て取れる。
家康が所領した三河・遠江・駿河の経営は、ほぼ完成に近い状態にあった。
だが、それ故に経済も頭打ちの状態であった。
その時降って湧いた関八州への移封話。
当時の江戸は未開の地。
考え方を変えれば、ゼロからの都市開発が可能な地でもあった。
また土地が褒美であった当時の価値観の中でゼロからの都市開発は、抜本的な組織改革のキッカケにもなったのである。
この移封によって家康は、官禄分離を進めていくことになる。
このような思惑が重なって、家康が入封し作り上げた江戸の町。
そして現在の東京の街は、徳川家康の深謀遠慮と天下百年の計によってもたらされた賜物なのである。
家康自身は不人気武将でも、突き詰めていくと学ぶべきことが非常に多い人物なのだ。
これだから歴史は面白い。
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