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ioritorei’s blog

完全趣味の世界

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【大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ】現代の粗悪な政治家にこそ適用したい徳川家康が推し進めた官禄分離政策。

 

 

 

 

大河ドラマ『どうする家康』に学ぶ

現代の粗悪な政治家にこそ適用したい徳川家康が推し進めた官禄分離政策

 

 

官禄分離政策とは

 

 

官禄分離。

現代では馴染みのない言葉だが、言わんとすることは文字面でわかると思う。

 

 

官とは職務の一般的種類のことを指し、責任をもって占める地位のこと。

日本では主に行政府・司法府の常勤職員及び非常勤職員に対して用いられ、古来より今日まで官職に任ぜられることを任官という。

 

 

禄とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。

 

要するに官禄とは、地位と給料のことである。

故に官禄分離政策とは、地位と給料を分離させる政策のことを指す。

もっとわかりやすく言うと、薄給だが発言力のある人間と、高給だがまったく発言力のない人間とに分けることを意味する。

現在の日本では官と禄が一極集中しているが、かの徳川家康はこれを分離させることで長期政権を築くことに成功している。

官禄分離のメリットは大きい。

強い発言力に加えて高給まで与えられると、よほどの傑物でもない限り、人は高潔でいられなくなる。

必ず私利私欲に走るのが俗物の常なのだ。

だからこそ、である。

衰退著しい今の日本だからこそ、俗物たる政治家に家康の政策を適用すべきではないだろうか。

 

 

 

家康の関東転封こそ官禄分離への絶好の機会

 

 

天正18(1590)年。

北条氏の討伐に成功して関東を平定した秀吉は、すぐさま戦後処理に入る。

その最大の眼目は、約二百四十万石にもおよぶ北条氏旧領を誰に与えるのかということに尽きた。

しかし実際のところ、小田原開城前から秀吉は、北条氏旧領に封じる大名を決めていた。

それが徳川家康その人なのだが、これは単なる加増ではない。

家康の領国五カ国を取り上げた上での加増だった。

すなわち、国替えと俗称された転封である。

秀吉は天下統一の過程で諸大名を対象とした国替えを断行しているが、家康の関東転封はまさにその象徴となる。

家康はそれまで百万石ほどの身上であり、関八州約二百四十万石の転封は数字上では倍増以上のアップであった。

家康の関東転封に伴い、三河遠江駿河・甲斐・信濃の五カ国に拡がっていた家臣団も関東に移ることが求められた

家臣たちの間では先祖伝来の土地から引き離されることへの反発も大きかったが、家康は秀吉の命を楯に関東への移住を厳命する。

関東は久しく北条氏に帰服していた土地であり、領主が家康に代われば、領民が反発して一揆が必ず起きる。

土地不案内で一揆が起きれば、必ず負けてしまう。

それに乗じ、敗北の責任を家康に取らせようという秀吉の魂胆は明らかとして、関東転封の風説を聞くと、家臣たちは大いに驚き、騒いだ。

だが、家康は泰然自若としていた。

たとえ五カ国を失おうと、百万石の所領さえあれば、上方に向かって天下を切り従えることは容易いというのであった。

家康の度量の大きさを後世に伝えるエピソードだが、実際のところは家康も家臣団も大いに動揺したはずだ。

いわば昨日までの敵地に乗り込む形であり、当然ながら前途多難が予想された。

家臣たちが危惧したように、家康の支配に反発して一揆が起き、秀吉から鎮圧できなかった責任を問われて改易となる可能性も決してゼロではなかった。

実際、転封された大名が領内での一揆を抑え込めず、秀吉により自害に追い込まれる事例もすでにみられていた。

だが、家康はリーダーシップを発揮して家臣たちの不満を抑え込み、国替えの命を甘受する。

新領地の関東で実力を蓄えるのである。

 

 

 

家康の本当の狙い

関東転封は家臣の力を弱め領国経営の基盤を整える絶好の機会

 


実は家康にとって、関東転封とは悪い話ばかりではなかった。

国替えに乗じて先祖伝来の土地と引き離すことで、独立性の強い家臣の力が削げるメリットがあったからだ。

戦国時代とは下剋上の世であり、どの大名も家臣の統制には苦労していた。

家康とて例外ではない。

その点で言えば、関東転封には災い転じて福となした側面もあったことは見逃せない。

家康の家臣といえば、忠誠心が強かったことで知られる三河譜代の家臣がイメージされるが、家康に絶対の忠誠を誓ったとは限らない。

先の秀吉との戦いでは、三河譜代の重臣石川数正が切り崩しに遭って寝返り、家臣団に動揺が走る。

その上、徳川家の場合は版図が急拡大し、そのぶん家臣も大幅に増えたため、家臣団の統制に苦しんでいたことは想像するにたやすい。

三河譜代の家臣に加え、今川氏旧臣、武田氏旧臣、今回の関東転封により北条氏旧臣も家臣団に加えられた。

まとまりのなさは否めなかった。

よって関東転封は家康にとって、徳川家をリセットできる貴重な機会となる

家臣たちを先祖伝来の土地と引き離すことで独立性を奪い、統制を強化できた

あわせて、領国経営を強化するため配置できた。

この関東転封で家康は、秀吉の命を楯にしてリーダーシップを発揮できる環境を整えることに成功するのである。

 

 

 

政治の中枢から外様大名を排除

 

 

時は過ぎて慶長5(1600)年。

関ヶ原の戦いの戦後処理で、家康はさらなる官禄分離政策を推し進める。

家康の論功行賞は実に絶妙なものだった。

戦功の加増により国主となった武将には前田利長(加賀・越中能登)、福島正則(安芸・備後)、小早川秀秋(備前・美作)、堀尾忠氏(出雲・隠岐)、加藤清正(肥後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、浅野幸長(紀伊)、田中吉政(筑後)、山内一豊(土佐)、中村忠一(伯耆)、京極高次(若狭)、京極高知(丹後)がいる。

この加増の原資となったのは、もちろん敗れた西軍に与した武将たちの旧領である。

しかし彼ら豊臣恩顧の武将は加増された代わりに中国地方や九州など西日本の遠隔地へ移封となり、畿内東海道などの要衝は徳川一門や準一門といえる家康の女婿、および譜代大名でことごとく固められた。

家康のこの処遇は、受けた恩には高給を以て応えるが、政治の中枢からは体良く遠ざけられたものだった。

 

 

 

譜代でも容赦なし

政治の中枢から武功派を排除

 

 

家康の論功行賞は外様大名だけにとどまらず、譜代の武将についても、官禄分離政策を推し進める恰好となった。

幕府の威光が確立されればもはや武功派に用はない。

代わりに必要となるのが、行政に長けた吏僚派だ。

家康配下の武将の中でも、武功派として最も有名だったのがかの本多忠勝である。

生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷ひとつ負わなかったと伝えられているほどの猛将だ。

忠勝は関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6(1601)年、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられている。

ちなみに1両は現在の貨幣価値で約10万円に相当するようで、受け取る石高が10石なら、現在の価値で100万円、1000石なら1億円という給与水準となる。

イチ家臣の身としては余りある厚遇のようにも思えるが、一説によると忠勝は一国が与えられることを望んだともいわれている。

このあたりの逸話が、家康が "しわい" と言われる所以なのだが…。

ただひとつ確実なことは、結果的に忠勝は政治の中枢からは遠ざけられている。

今までの働きには高給を以て報いたけれど、政治への発言力は奪った形だ。

 

 

 

家康とは「水魚の交わり

頑なに加増を固辞した側近・本多正信

 

 

家康の官禄分離政策を一番良く理解していたのが側近の本多正信だ。

松永久秀は正信のことを、「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したという。

ひと言ふた言交わしただけで家康の意図を理解してしまう正信を、家康は参謀として重用し「友」と呼んだといわれている。

家康から重用される正信は吏僚派の筆頭であり、常に戦さの最前線で体を張ってきた武功派からは疎まれる存在であった。

だが正信自身はそうした自分の立場をよく理解していたようだ。

正信の領地は相模玉縄に2万2,000石(一説には1万石)。

家康の最側近にも関わらず、与えられた禄といえば前述した忠勝の10万石に遥か及ばない。

絶大な発言力があっても、武功派諸将に比べると明らかに薄給である。

さらに正信は子の正純に、「我の死後に、汝は必ず増地を賜るだろう。3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」と、常々説いていた。

また正信は秀忠に「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、嫡男上野介(正純)の所領は今のままで、これより多くなさらないように」と嘆願したという。

正信がこれほどまでに昇給を固辞したのは、人間の本質をよく理解していたからだろう。

三河武士はどちらかと言えば知力よりも武勇に長けていた者が多かったから、正信と相容れない家臣が多かった。

例えば徳川四天王の一人である榊原康政は、正信のことを「腸が腐っている」などと散々な悪口を言っている。

もし正信に官と禄が一極集中していたら、諸将の妬みや嫉みは計り知れないものになっていただろう。

豊臣秀吉政権下の石田三成(官禄分離政策を進めたが、最終的な禄は佐和山19万4,000石)のように、もしかしたら命を狙われる危機にさらされていたかもしれない。

事実正信の子である正純は、父の死後その遺志に叛いて宇都宮15万5,000石の封を得たが後に改易されている

下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が、宇都宮城に吊り天井を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった、いわゆる宇都宮城釣天井事件である。

実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされているが、他の誰かに貶められた可能性が非常に高い。

人間の妬み嫉みというのが恐ろしいものだということを、正信はよく理解していた。

そして官禄分離こそ、人間の妬みや嫉みを分散させる政策だということを家康はよく理解していた。

 

 

 

 

 

官禄集中の現代の政治家

 

 

時代を現在に戻そう。

現代の政治家の官禄はどうなっているだろう。

国会に出席していなくても居眠りしていても高禄を食み、その発言力は言わずもがな。

まさに官禄集中の温床ではないのか。

これが民間ならば当たり前であろうが、それが政治家となれば話は違う。

彼らは国民の代表にして代弁者であって、為政者代行でしかない。

あくまでも国民の代わりでしかないのだ。

そんな輩に高禄を与える必要があるのだろうか。

高禄を食む政治家に、国民の代弁が務まるだろうか。

結果は今現在彼らが示している通りである。

政治家に清廉潔白さを求めるなら、まずは彼らの禄を下げるべきだ。

どっぷり欲深くなった人間に、高潔な心は宿らない。

家康が推し進めた官禄分離政策で、日本を作り直すのは "今" ではないだろうか。

 

 

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