『どうする家康』に学ぶ
大河ドラマの時代考証は最新の研究結果発表の場
大河ドラマは古い歴史認識を改める好機②
大河ドラマでは、我々が教科書で習った歴史認識とは違う描写がしばしば見受けられる。
これは「ドラマ=フィクション」だから、好き勝手に脚色している…というわけではない。
もちろんフィクションの可能性が否定できない場面もたくさんある。
ただそれは、"歴史の空白" にあたる部分に関してのみ。
例えば「諸説ある」なんて事例は、絶好の創作機会。
諸説あるから誰にも真実はわからない。
だからこの "歴史の空白" を、脚本家がドラマチックに脚色できるわけだ。
しかし脚色できない史実もある。
そこで重要になってくるのが時代考証というやつだ。
だいたいは、対象となる時代に造詣が深い学者さんなんかが担当している。
そんな歴史のプロフェッショナルが監修しているにもかかわらず、なぜ我々が教科書で習った歴史認識とは違う描写になるのか?
それは大河ドラマの時代考証が、最新の研究結果に基づいているからである。
皆さんは歴史は変わらないのお思いだろうか?
否。
歴史は勝者がつくるもの。
故に、勝者に不都合な事実は歴史の闇に消える。
歴史とは真実ではあるが、事実でないものが多く含まれているのだ。
では、なぜ闇に消えた事実が解明されるのか?
それは新事実を記した新たな文献の発見に依るところが大きい。
特に新たな一次資料※の発見は、対象となる時代の研究に大きな影響を与える。
それによって歴史認識が変わってくる。
歴史が変わる。
歴史認識とは不変的なものではなく、常にアップデートされているのだ。
そして大河ドラマこそ、その新しい時代考証を広く世に知らしめる発表の場となっているのだ。
だから大河ドラマは見逃せない。
※一次資料
対象とする時代において制作された工芸品、文書、日記、写本、自伝、録音・録画、その他の情報源を指す。
これはそのテーマに関する大元の情報として利用される。
信康と築山殿
泣く泣く信康と築山殿を処刑
天正7(1579)年。
徳川家康は武田家に通じたとして嫡男の松平信康を切腹させ、正妻の築山殿を殺害している。
徳川家にとっては、まさに御家を揺るがす一大事だったといえよう。
この事件に関しての、これまでの認識はこうだ。
信康に嫁いだ娘・徳姫(五徳)が織田信長に密告し、信長の命を受けて家康は泣く泣く嫡男・信康に切腹を命じ、正室・築山殿をも処刑せざるを得なかった…。
だが近年の研究では、どうやらこれは家康の意向によるものだという見方が強まっている。
今では武田派だった二人を粛清することで、家中の結束を図ったのではないかという見方が有力なのだ。
信長指示説を覆す新しい説を裏付けるのが、酒井忠次ら「浜松衆」と、信康が率いる「岡崎衆」の確執だ。
浜松衆は家康の勢力拡大に貢献して発言力を強めていたが、後詰や後方支援の役割を任されていた岡崎衆には活躍の場がなかなか訪れなかったよう。
そのため、岡崎衆によるクーデター計画のようなものが画策されていたというのが現在の通説だ。
信康と築山殿と今川家
『どうする家康』でも際立つのが家康と正妻・築山殿の仲睦まじい姿。
だが実際、史実のなかでふたりの夫婦関係はいかなるものだったのか?
最終的に家康は、嫡男・信康諸共正室である築山殿も処刑している。
これは前述した通り、信長の命令に家康が泣く泣く従ったというのが従来の説。
だが信康は泣く泣くでも、築山殿に関しては家康から疎まれていたと古くから考えられていた。
なぜか?
それは築山殿が今川家の人間だったからだ。
これまで築山殿は、名門・今川家の出を鼻にかける、尊大な態度が目立つ人物だったといわれてきた。
本当にそうだったのか?
これも前述したが、現在では信康切腹の直接の原因は浜松衆と岡崎衆の確執だと考えられている。
このことに築山殿の人柄は一切関係ない。
しかし息子を大事にするあまり、信康に肩入れする築山殿の姿は容易に想像できるだろう。
故に築山殿処刑は、その確執の巻き添えになったと考えるのが自然の流れである。
ただ、築山殿には武田・今川両家とのコネクションがあったことはたしか。
陰謀論が浮上してくるのも致し方ないともいえる。
しかしこの事件に関しては、あまりに諸説ありすぎて、事実が何なのか一切わからない。
武田家との密通や今川家との関わりも、真相がわからない以上、築山殿の本当の姿は見えてこない。
これが歴史のミスターであり、ロマンなのではあるが…。
著者個人としては、すべての責任を信長になすりつけた家康の思惑だと考えている。
家康神格化に伴い、徳川にとって不都合な過去を、都合の良いように改ざんした。
それが「泣く泣く斬った説」であり、その不都合こそが浜松衆と岡崎衆の確執であり、家康にとって無関心だった築山殿に関しては、単なるイチ被害者でしかなかったのではないだろうか。
いつの世も世俗は悪女を創作したがる。
築山殿は、その格好の的にされてしまったのではないだろうか。
そうであってほしい。
現実で家康と築山殿の関係は、少なくとも家康が浜松城へ移転したときには冷え切っていた。
長女の亀姫が生まれてから10年が経とうというのに、築山殿はそれから1人も子を産んでいない。
死産や早産の可能性はあるが、供養した記録が皆無なことからすれば、もはや同衾することもなく、双方とも意思が消え失せていたと見てよいだろう。
築山殿が浜松城へは同行せず、息子・信康が城主を務める岡崎城に留まったのは露骨な意思表示である。
これは家康にとって好都合だ。
築山殿の処刑まで、事のついでに行える…。
…もしそんな事実があったとするなら、それは家康の暗黒面に他ならない。
しかし神と崇められる者がそんな狭い了見では、誰からも崇拝されないだろう。
そしてそれは、為政者にとって不都合以外の何ものでもないのだ。
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